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2007/09/23

「問題を起こすのが政治家の仕事ではない」

 9月21日、福田康夫、麻生太郎の両氏が日本記者クラブで公開討論会を行った。その中の一部分について『朝日新聞』の「天声人語」氏は次のように書いている(9/22)。
---「『問題を解決するのが政治家。起こすのが仕事ではない』(福田氏)には噴き出した。」
何に噴き出したかの理由が書いていないので、推察するほかはない。昨今、「政治とカネ」に関して政治家がしょっちゅう問題を起こしているのに、「それはないだろう」という意味で噴き出した、とも取れる。そのつもりで書いたのかもしれないが、実際に福田氏が念頭においているのはこの種の問題ではなかったのだ。この発言が出た文脈はこうである。
---麻生氏の言う「誇れる国」は未来像のことなのか現状のことなのかを質したのに対し、麻生氏がやや憤激した様子で、「自分は自虐史観にくみしない」という意味の言葉を返した。ここで「自虐史観」という言葉が不用意に発せられたのに対し、福田氏は「問題を起こすのが政治家の仕事ではない」と切り返したのである。

 多元的国家観(権力の多元性を認める国家観)を一応は望ましいと思っている拙者のような立場から見ると、「問題を起こすのは政治家の仕事ではない」という福田氏の発言はしごく尤もで、なぜ「噴き出す」のか、さっぱり分からない。なるほど、現今では多元的国家観は理想であり、現状の国家はこの理想から遠く隔たっている。為政者はしばしば偉そうに問題を立てる。「戦後レジームからの脱却」「教育再生」など。国民の一部にはこうした問題を立てることを望む声がないとは言えない。だがそれは一部の声であって大多数の声ではないのだ。為政者が独りよがりでこうした問題を立てたのである。こうした為政者はリベラル・デモクラシーのイデオロギーが多元的国家観であることを全く知らないのだ。そんな言葉は聞いたこともない、と言うだろう。確かに、多元的国家は理想であり、それに到達するのは困難だが、いやしくもリベラル・デモクラシーのもとで政治をやる以上、それくらいのことは知っていて、それに近づくよう努力すべきだ。ところがそのことがまるで分かっていないのに、中国を暗に名指しながら、インドとは価値観を共有するなどと、空疎な言葉を世界へ向けて放送したりしているのである。

 以上で述べた意味において、拙者は「問題を起こすのではなく解決するのが政治家の仕事」という福田発言をしごく尤もだと思うのだ。麻生氏は安倍政権を踏襲し、またもや「自虐史観」には立たないなどと言うのに対し、福田氏はそれは「問題を起こすこと」だと批判しているのである。
 「自虐史観」を含めて歴史認識は専門家に委すべきだというのが、自民党出身の為政者たちの表向きの発言ではなかったのか。それが表向きで本音は特定の史観に立つことを平然と洩らし、さらにはこの本音を「戦後レジームからの脱却」などといった内容不明の政策として打ち出したのが安倍内閣であった。麻生氏がこの路線を踏襲しようとしていることは、先の発言で露呈されている。政治家の任務は問題を立てる(福田氏は「起こす」と言っているが)べきではなく、問題を解決する(紛争を解決する)ことなのだ。麻生氏はそのことがまるで分かっていない。彼は「キャラを立て」たがるが、「問題も立て」たがるのだ。「そうすると、僕はノーキャラ?」と応じた福田氏の期せずして発したユーモアはピントが合っていた。

 「天声人語」氏はまた、「指導者の必須条件は」という問に「孤独に耐える力」と答えた麻生氏の発言を「味わい深い」と書いている。一方では福田発言に「噴き出した」この人が、今度は「味わい深い」だ。これはこの新聞紙上のテレビドラマ批評欄でよく使われる表現だ。テレドラ批評はともかくとして、こういう文脈で「味わい深い」などと書く人の趣味は拙者のそれにはほど遠い。こういう趣味の人だからこそ、この文に何となく感じられる「福田よりは麻生」という判断が出てくるのだろう。

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