« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006/11/26

朝まで生テレにおける「いじめ」もどき

 高級(?)エンターテインメントである「朝まで生テレビ!」の11月25日の番組は、「いじめ」がテーマであった。最初の発言者の役割をふられた(進んでこの役割を買って出たのかどうか分からない)民間団体の老婦人(どうしてこの人が呼ばれたのかは分からない)は、いじめの責任は日教組にある、とのたもうた。同席した日教組委員長の先生は、この頃は日教組はいじめられ役である、という趣旨の自己紹介を行った。よく分かったうえで、この番組に出てきたのだ。はたしてこの実直そうな先生は、番組中いろいろの人からいじめられた。目立ったのは司会者によるいじめであった。司会者は「教師は聖職者ですか、それとも労働者ですか」などと、2、30年前にはやった言葉を責め道具に使った。相当の高齢者である拙者でさえも時代錯誤に聞こえた。カトリックの坊さんでもあるまいし、聖職者が労働者であってもいっこうに構わないではあるまいか。またこの司会者はこの先生に向かい、日教組にいじめの対策はあるのかと尋ねた。先生がその対策に関する文書を読み始めたところ、司会者は、自分の言葉で話しなさい、と偉そうに説教した。実直そうなこの先生はこういう場所では、ほかの人たちのように巧く口がまわらない人のように見えた。しかし即座に巧くしゃべられないということは、じっくり考えてものを言う能力と、しばしば表裏を成しているのだ。表面に現れた短所(?)だけに目をつけてやっつけるのは、いじめの常套手段である。この司会者を見ていると、クラスの中で先頭になって特定の生徒をいじめている教師のイメージと、拙者の目にはダブってしまう。

 なにかの文脈で社民党党首が、先生たちはとても忙しいのです、と言うと、この司会者は、僕の知っているテレビのディレクターは夜遅くまで仕事をしている、と反発した。だが職務に忠実な先生のように年中毎日忙しい(生徒をあずかっているという重責を負う)という訳ではなかろう。それに、テレビのディレクターの中には何千万円も着服する人もいる。先生はそんな大金を横領する状況には置かれていないが、テレビのディレクターよりはるかに多数であるのに、たとえば修学旅行の積立金を横領する先生はほとんどいない。司会者は的外れの比較の対象を選んでいるのだ。

 だいたい、組織率がわずか3割に落ちている日教組の先生に、つまり職員会議(その職員会議の権限も大幅に奪われている)で少数派の先生に、いじめ対策立案の責任を過大に求めるのはおかしいのではないか。この番組集まりには元教育委員会指導主事もいたし、政権与党のメンバーもいたし、「美しい日本の心を伝える」という日本教育再生機構の理事長もいた。筋から言えば、労働者の組合の一メンバーを過度に追及するのはバランスを失している。

 ところでこの日本教育再生機構理事長である大学教授は、日教組の先生が教育基本法改正に反対して国会前に座り込んでいる(300人ほど、マスコミ報道はなし)と、非難がましく語った。反対の意思表示としての座り込みは当然の権利だ。教師は聖職者である以上、合法的な大衆運動すらも起こせない、とでも言うのだろうか。これではもう、民主主義に疑問を投げかけているようなものだ。

 それにしても、「いじめの責任は日教組にある」という論理が、拙者には全く理解できない。それは「教育基本法を改正すれば教育がよくなる」という論理の分かりにくさに似ている。ちなみに、『朝日新聞』の最近のアンケート調査では、「教育基本法を変えると教育はよくなると思いますか」という設問に対し、肯定の答はわずか4%であった。拙者はサンプル数の非常に少ないマスコミの世論調査の結果をそのまま信じる訳ではないが、この調査結果は、だいたいにおいて実態を反映しているように思われる。「いじめの責任は日教組にある」という論理は、日教組をスケープゴートに選んでいると考えれば、理解できる。こうしたスケープゴート選びはいじめる側がよくやることなのだ。日教組の先生が校長を過度に吊し上げたといったような行き過ぎが全くなかったとは言えない。しかし日教組の先生は大体において生徒の教育や指導に関しては普通以上に熱心な先生であった。彼らにいじめの責任を負わすのはどう考えても無理である。彼らの多くは平和教育にも熱心であった。それをいやがる政府与党や文部省は日教組の力を弱めるために様々の戦略をあみ出し、その戦略がほとんど功を奏したのが現状である。それに伴って自大史観(あるいはうぬぼれ史観)が陰に陽に幅をきかせるようになったのだ。一方、日教組が骨抜きにされた時期に学校教育を受けるようになったのが今の生徒たちである。だから日教組にいじめの責任を求めるのは明らかに無理だ。

 司会者をはじめ出席者のかなりの部分が(全部とは言わないが)、日教組の先生を「いじめ」ていた。いじめを狭く定義すれば、いじめと言うよりも「いじめもどき」と言うべきだろう。ともかくこの番組のかなりの部分が(拙者は途中でスイッチを切ったのだが)いじめもどきの演出であった。いじめをテーマにしているだけに笑えてくる。だが不愉快でエンターテインメントにもならない。太田光総理の主宰する番組のほうがはるかに楽しめる。

| | コメント (12) | トラックバック (3)

2006/11/19

いじめる側に問題

 いじめによる自殺が毎日のように報道されている。それと共に、文科省大臣をはじめ、専門家や有名人たちのアピールが、紙面や画面を賑わわせている。そのアピールは自殺の防止をめざしているので、当然のことながらいじめの被害者へ向けられたものが多い。しかし加害者があって被害者が出るのであり、その逆ではないのだから、いじめ問題は、まずなぜいじめるかの問題である。いじめの欲望がある限り、なんらかの対象が出現するのだ。誰が対象として選ばれるかは状況によってさまざまであり、二次的な問題にすぎない。

 いじめとは多数者の少数者への攻撃だが、それにはいろいろの場合があって、どんな場合がいじめなのかを精確に定義しようとすると、これはなかなかむつかしい。だがここではいま深刻な問題となっている学校内のいじめを念頭に置くだけで十分である。
 人間は自分の力を表現したがるものだ。力が表現できた時、快感を味わう。ところが独りでは自分に力があることを自認できない場合が多い。多数の中に加わると、多数の力が各自に伝わり、自分が力のある存在だと思えるようになる。こうして得られた力を無力な対象に向かって行使するのがいじめである。いじめに参加した各自は快感を得るが、それにはうしろめたさや、自分自身が傷つけられているような不快感を伴うこともまれではない。しかしそれでも快感が得られることは確かだ。
 いじめる対象として選ばれるのは、人並から外れた生徒である。多くの場合、この犠牲者は並以下の属性や能力の持ち主とみなされている生徒だ。たとえば人並よりも気が弱くて、いじめに逆襲することのできない、格別に気の優しい生徒がそうである。この例が示すように、並以下の属性や能力とみなされているものも、別の観点からは並以上であるかもしれない。だがいじめる側から並外れであると見えるだけで、彼または彼女は犠牲者として適格なのである。なぜなら並外れは少数者だからだ。それゆえ、まれではあるが、並以上の生徒もいじめの対象に選ばれることもある。たとえば格別に成績がよいとか、格別に可愛らしいとかが、注目の対象となる。これらの能力や属性を利用して、彼または彼女が先生に気に入られようとしていると見える場合には、いっそう注目の対象となるが、そう見えなくても、やはり注目の対象となる。並外れだからだ。つまり少数者だからである。
 ここでいじめグループにとっての少数者のイメージについて考えてみよう。いじめる者にとって並以下の対象は、自分がそうなりたくない他者であり、並以上の対象は、自分がそうなりたいがそうなれない他者である。いじめる者は前者に対しては嫌悪を、後者に対しては羨望を感じるが、いずれにしても、並外れの者はこのグループの世界の外にある。世界の外にあるということが、いじめグループにとっての少数者たるものの特徴なのだ。だからいじめはこれら少数者が彼らの世界の外にあることをはっきり確認する作業である。

 人は多数に参加することで多数の力を自分のものとし、それによって自分の力に自信をもつことができた。その結果、この多数グループの狭い世界を堅固にすることになった。裏返して見れば、人は自分たちの狭い世界を堅固にするために、自分の弱い力を強化してその力を行使しているとも言えるのである。
 多数に参加しなくても、自分の力を強め、自信をもつ方法はほかにいくつもありうる。また、少数者を攻撃しなくても力を表現する通路はほかにいくつもありうる。こうしたほかの方法や通路に目が向かないで、狭い世界を固めることで力を行使するのがいじめグループなのだ。どうしてこんな矮小な方法や通路にかなり多くの生徒がハマってゆくのか。さしあたっては、私たち社会の側に問題があるとしか言えない。

 ただ、はっきり言えるのは、教育基本法の改正はいじめの解消には何の役にも立たない、ということである。逆に、愛国心涵養の教育は、いじめではないが、それに類似する多数者の少数者攻撃へと、力の行使を導いてゆくことだろう。この教育は非国民を作り出して彼らを攻撃する道を広げ、矮小な世界を堅固にしてゆくだろう。この改正案は参院をも通過しそうになっている。何のための改正なのか。国会での議論が深まらないまま、やらせタウンミーティングなどのごまかしで、多数派が押し切ろうとしている。残念だ。

| | コメント (3) | トラックバック (3)

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »