« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006/10/31

斜めから見たいじめ

 いじめが多発している。あるいはいじめによる自殺が引き続いて明るみに出ている。しかし明るみに出ないいじめによる被害、自殺だけではなく不登校のような場合を含めての被害は、ここ一、二年のあいだに急増したとは思えない。当てになる資料がないので、いつ頃からいじめが増え、あるいは過激になったのかは確かめようがないが、少なくともここ一、二年よりももっと以前からのように思われる。いじめ発生の原因はいろいろあるだろうが、その一つは多数者の中にあって少数者が孤立する状況にあることは確かだ。以前は、と言ってもいつ頃のことかこれもはっきりしないが、クラスに一人のガキ大将がいて、幾人かの弱者を「いじめ」ていた。ガキ大将に二、三の手下がついていることもあったが、それほど多数ではなかった。この種の場合は今日的な意味でのいじめではない。今日的な意味でのいじめは多数が一人の孤立者を集中攻撃することだからである。

 ところで話は変わるが、プロ野球の日本シリーズの実況放送と事後の報道で、テレビ各社はこぞっていやになるほど新庄選手にスポットを当てていた。実況放送で何かというと彼を映していた。彼がベンチにいる時でさえもしばしば映した。もともとこの選手の不自然なパフォーマンスが拙者にはいっこう面白くなかったので、試合後のマスコミの扱い方を含めて、拙者は「いい加減にしろ」と言いたくなった。新庄選手は人気があるから当然だとマスコミの方はおっしゃるだろうが、その人気の何%かを作り上げたのはあなた方ではないか。ひょっとしたら50%くらいはそうではないのか。

 イーホームズの藤田社長が記者会見を開いてまだまだ残っている耐震偽装や、その温床となっている財団法人日本建築センター、および国土交通省の当該部門を担当する役人たちや前大臣を「告発」した(刑事上の告発ではないが)。ところがマスコミ各社はこぞってこの「告発」を無視した。メジャーの新聞やテレビはまるで打ち合わせをしたかのように黙殺した。それは今も続いている。藤田社長の「告発」に根拠があるかどうかを調べていると言うかもしれないが、根拠を確かめられなくても重要そうな言論を報道する例は今まで沢山あったではないか。この一斉の黙殺にはウラがありそうな気がするのは拙者一人ではあるまい。
 ところで、藤田社長が安倍総理に会おうとして街頭で警官たちに制止されている頃、藤田ならぬ藤岡琢也氏の通夜や葬儀があり、マスコミ各社はこれまた一斉に「渡る世間は鬼・・・」のにせ家族を演ずる役者たちにまでスポットを当てた。「渡鬼」などほとんど見たことのない拙者はまたまた呆れ果ててしまった。藤岡に重く藤田に軽い(というよりもゼロの)この扱いはほとんど異常だ。

 マスコミに話題が移ってしまったので、マスコミといじめとはどんな関係があるのかと、いぶかしく思う人もあるだろう。その答。直接の関係はない。しかし二つの現象には共通項がある。昔は、と言ってもいつの頃かは確定できないが、「いじめ」っ子がいたとしても、それに多数が一方的に加担することはなかった。人間にはいろいろあるという考え方が、一方的な加担を暗に抑制していたからだ。今は違う。何かのきっかけで、このシーソーはすぐに一方に傾いてしまうのだ。今日のマスコミもそうである。新庄選手に報道が一方的に傾いてしまう。ということはそれ以外の面は無視されることを意味する。藤岡にシーソーが傾けば藤田は無視されるというわけだ。バランスが壊れやすいマスコミのこの構造は、いじめの構造と似たところがある。だからといって、マスコミがいじめの原因などと言うつもりはない。それは暴論だ。シーソーがすぐに一方に傾いてしまう両者の構造に共通する何かがあり、それがいじめの原因ということになるのだろう。
 しかしこの頃の生徒たち(大人もそうだが)はマスコミの影響を受けやすいことも事実である。だからマスコミにおけるシーソーの一方的傾斜を生徒たちが学ぶ可能性は多分にあるはずだ。そのことはたとえば、親の影響をうけた二人の兄弟のうちの弟(いじめる生徒)が、親からだけではなく兄(マスコミ)からも影響されるようなものだろう。しかしそれにしても、マスコミからの影響は間接的にとどまるので、ここではマスコミといじめはシーソーの一方的傾斜という特徴を共有しているということを指摘するだけでとどめておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »