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2006/09/16

自大史観と事大主義

 危険人物が次期総理になろうとしている。安倍晋三のことだ。この人物は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」という長ったらしい名称の会のリーダーであった。この会はいわゆる自虐史観を批判する連中の集まりである。自虐史観とは日本が侵略戦争を行なってきたと見る史観とされている。これを批判するとは、日本の戦争は自衛のためであり、ある局面ではアジアの植民地や半独立国を西欧の支配から解放するためでもあったと主張することである。しかし少なくとも中国に攻め込んだ戦争は、どう見ても侵略戦争であったとしか言えない。そして南京虐殺の被害者の数は確定し難いとしても、中国各地での民衆に対する日本の軍隊の数々の蛮行は明白な事実である。およそ戦争とはそういうものだとか、昔から強国が弱国を侵略してきたのにどうして日本の戦争だけが咎められなければならないのか、といった言い訳は通用しない。何が犯罪であるかを決める基準は歴史的に変化する。1930年代には19世紀の帝国主義の時代や中世・古代において通用していた戦争観はもはや通用しなくなっていたのだ。それは悪にかかわる人間の感受性が変化してきたためである。この感受性の変化に倫理の基準が対応していることを認めないなら、今でも人身売買や奴隷制は当然のこととして通用するだろう。人権や悪にかかわる感受性は変化してきたのだ。だがそうだからといって、この感受性が変化する限りそれにもとづく倫理など存在しない、ということにはならない。感受性は変化するが、感受性そのものが無くなったことは一度もなく、ずっと存在し続けているからである。
 自虐史観を批判する人たちには、明言はしないが、強国の弱国への侵略は昔から当然のこととして行なわれてきたのに、1930年代の日本による中国への侵略だけがどうして咎められなければならないのか、といった憤懣が底流としてあるようだ。だがその憤懣は正当化されえない。それは間違っている。だからこの憤懣を底流としてもつ自虐史観の批判者たちは、みずからの悪や人権にかかわる感受性のいちじるしい退化と、他者の被害に対する恐るべき鈍感さとに全く気づいていない、と言われても仕方がない。彼らは日本は侵略と咎められるような戦争はしたことはなかった、ちっとも悪くなかった、日本はこれでよかったのだ、この調子で進め進め、と言わんばかりである。こうした史観を何と呼んだらよいのだろうか。うぬぼれ史観と言う人もいる。それでもよいが、自虐史観という言葉に対比させるなら自大史観と言ってもよかろう。自大とはあまり使われない言葉だが、『広辞苑』を引くと「自ら尊大に構えること」とある。

 安倍自民党総裁候補はどう見ても自大史観の持ち主であるにもかかわらず、「歴史認識は歴史家に任せるべきものではないか」などと言ってごまかしている。「自ら尊大に構える」人としては不似合いな臆病さだ。また日中国交正常化時に中国側は「日本の戦争指導者と一般国民とを区別する」ことで、国民に国交正常化を納得してもらったといういきさつがあった。その点を指摘した谷垣候補に対して安倍候補は、それは中国の階級史観によるものだとか、そのことは文書に書かれていないから考慮しないとか、訳の分からない反論を行なっている。安倍のような自大史観の持ち主が総理になった時、中韓との関係はギクシャクし続けるだろう。中韓だけではなく、靖国にも参拝しそうな(実績あり)この人は他のアジア諸国民にも異様に見えるだろう。アメリカ国民の中でも首をかしげる人がもっとふえてくるに違いない。自大史観は国際的には通用しないことを、この史観の持ち主は気がつかないのである。それが自大史観なるものの本質なのだが。

 安倍候補の圧倒的な優勢を見て、津島派、丹羽・古賀派、伊吹派、高村派などの派閥やグループはなだれを打って安倍支持を表明し出した。これを事大主義と言う。事大主義とは「自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って自分の存立を維持するやりかた」(『広辞苑』)である。かつては各派閥はみずからのエゴイズムを主張し合うことにより、相殺機能を発揮して結果としては穏健な政府をもたらした。小泉首相のおかげで今や派閥は骨抜きにされ、かつての消極的な相殺機能さえも失いつつある。派閥は猟官をめざして、自分たちを骨抜きにした小泉の後継者にすり寄っている。

 小泉首相はその自大史観(ヴェールで蔽われてはいるが)で中韓両国の顰蹙を買った。その尻馬に乗って中韓両国の国民感情を傷つけた麻生外相の「功績」も忘れ難い。一方小泉首相は竹中平蔵と組んでグローバリズムを大幅に導入し、貧富の格差を増大する弱者切り捨て政策を強行した。ちまたには障害者、老人、地方などを含む弱者の怨嗟の声がゆきわたっている。自大史観と弱者切り捨てとは明らかに共通性をもつ。どちらも他者の被害への想像力の欠如を物語っているからだ。小泉の「業績」を継ごうとする安倍は弱者の怨嗟などの負の遺産をも引き継ぐことになるだろう。国際的には危険人物というイメージを背負ってゆくことになるだろう。この未来の首相には小泉の残したツケであまり明るくない運命が待ち受けているに違いない。この人物をかつぐ派閥の事大主義者どもは、自民党そのものが衰退してゆくリスクに気づいてはいないようだ。 

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コメント

今回の激高老人:作田氏の書き込みは大変に参考になりました。
自虐史観と揶揄してからかなりの月日が流れましたが、自虐史観と
相手を決め付けてから相手側にはきちんとした反撃が奏功していなかった。
自虐的だという決め付けに対して「自大」という反論は有効です。
今度の新内閣の総理もどうやらこのグループと全く同じ思想なので
なおさらです。
しかし、安部氏は作田さんが言うように「歴史認識は歴史家に任せる」(前にも同じことを言った首相がいた)という消極的な言い方は本人のこれまでの発言と矛盾しています。対中関係のあの妄想的で根拠のない発言は歴史家に任せるという謙虚な姿勢は微塵もない
わけですから。
今後もこうした根拠のない発言を多発して国を危険な方向へ赴かせる、安部氏の一挙手一行動に警戒を怠ることが出来ないようです。

投稿: 名無しの探偵 | 2006/09/27 09:33

「中国に攻め込んだ戦争は、どう見ても侵略戦争であったとしか言えない。そして南京虐殺の被害者の数は確定し難いとしても、中国各地での民衆に対する日本の軍隊の数々の蛮行は明白な事実である。」とありますが、何をもって明白な事実と言うのでしょうか?
その参考文献をしめしてください。

もし、東京裁判をもってその根拠とするなら、米国の戦後処理プログラム(GHQ含む)や中国共産主義のメディアコントロールによってゆがめられていない実証的な参考文献を読むべきでしょう。

中国の軍事戦略の片棒を担ぐことになってはいないでしょうか?
表立ったものだけでも、尖閣諸島(その海底資源)を狙っており、新たに宇宙軍拡(月資源や人工衛星攻撃等)を推し進めています。

確かに戦争は反対です。
日本に軍事独裁政権を許すべきではありません。
しかし、皇国史観が存在しない以上、それに反対とういう立場もやはり時代錯誤ではないでしょうか?

現在を見失った視点は正当な判断を誤らせます。
日本は必要以上に補償もして来たし、言われの無いことについても誤りすぎるぐらいあやまって来ました。

戦争を知っている人達はそれで気がすむのかもしれませんが、これからの人・戦争を知らない人達は、正しいことも正しいと言えず、そればかりか良心の発達(幼少から権威によってはぐくまれる単純な良し悪しの判断)も阻害し、アノミー(社会秩序が乱れ、混乱した状態にあること)を放置し、それを正しいとするのでしょうか?

現在の様々な問題は、対皇国史観というような単純なものではありません。
無責任に、自虐史観批判派を攻撃するより、愛国心とは言いませんが、日本の良いところを他国の人に紹介できるようになりたいものです。

投稿: ピリ辛 | 2007/02/17 14:50

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