原爆投下後の陸軍病院
1945年8月6日の午後だったと思うが、拙者は山口市郊外のとある民家の門の日陰に腰をおろしていた。演習中の休憩時間であった。雲一つない晴天だった。一緒に数人で休んでいた兵の一人が「広島に新型爆弾が落ちたげな」と誰にともなくポツリと言った。「どんな新型なのか」と誰も聞き返そうとはしなかった。聞いても精確な答えが返ってきそうになかったし、多分これまでよりも大きい型くらいのものだろうと想像したからである。あとでこの新型なるものがこれまでのとは全く性質を異にした途方もないしろものであることを知った。
演習を終えて帰営すると、さっそく病院の当番兵の勤務が回ってきた。広島の原爆で傷ついた将兵が続々と山口の陸軍病院に回されてきたからである。一期の検閲を終えた兵は演習以外の日は各種の当番として勤務することになっていた。拙者は病院の当番は嫌いではなかった。というのは重い荷物を運ぶ使役などに回されると、荷物を肩にかつぐ体力がないので、監督の下士官にこっぴどく叱られるからである。病院の当番は体力が要らないので、拙者の好むところであった。病院へ赴くと、一人の患者の世話をすることになった。彼は目鼻立ちのはっきりしたなかなかの美青年であった。外傷は見当たらないのに、2、3時間ごとに血便が出た。拙者はそのたびに下着を洗った。青年は気の毒がった。彼の母と妹が見舞いにくると、彼は世話になっている人だと拙者を紹介した。彼女たちは当時田舎でしか作れないようなおはぎを重箱に入れて持参したが、もちろん彼は口にすることができなかった。彼女たちは拙者に息子、兄が世話になっていることのお礼を述べ、おはぎを食べるよう勧めた。仲のよさそうな一家であった。
翌日、病院にきてみると、青年は亡くなっていた。昨日見かけはどこも悪くなさそうな人だったのに、一日のうちにこの世から去ってしまったのだ。なんというはかなさだろう。あの母や妹はその死をどう受けとめているのだろうか。病院では広島から送られてきた原爆患者がどんどん死んでいった。毎日何体かの遺体が院内の一角に安置された。拙者は、夜どおし立っているだけの楽な勤務だったので、人の嫌がる屍(しかばね)衛兵を志願した。
あれから61年たった。核武装をしたがっている国家が次から次へと現れてきている。一方ではあらたに核保有をさせないように抑制をかける核保有の「先進国」がある。彼らは自分たちの核を廃絶しようとはせずに「後進国」を抑えようとしているのだ。やがて地球は核だらけになるだろう。あぶない均衡がいつか破れて世界核戦争という破滅の日がやってはこないだろうか。そんな日は決してやってこないと断言できる人は世界の領袖たちのあいだで果たして何人いるだろうか。
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