« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006/08/18

政治権力者の靖国参拝は非常識

 政治権力者の靖国参拝は民主主義の社会の常識に反するということを、拙者はこの欄で何度も書いてきた。同じ意見はいくつかのマス・メディアの社説やその他で、多少力点を異にするが幾度となく語られてきた。当たり前のことだが当たり前とは思わない人が結構多いので、繰り返し述べておきたい。

 第一。靖国神社は戦没者を追悼する普通の施設ではない。それは特定の宗教あるいはイデオロギーを主張する特殊な施設である。それは侵略戦争を否定し、自衛のための戦争であるとする特定のイデオロギーを表明している。このイデオロギーにもとづいているがゆえに戦没者でもないA級戦犯の合祀に踏み切ったのだ(当時の厚生省の示唆によるのだが)。A級戦犯を合祀したからこの神社が特定のイデオロギーの担い手となったのではない。特定のイデオロギーの担い手であったからこそA級戦犯を合祀したのだ。

 ところで、権力が一点に集中せず、多元的に分散している民主主義社会においては、政治権力者が特定のイデオロギーを担う集団に加担することは禁じられている。政治権力者は暴力を行使する特別の資格をもっているので、政治権力者が特定のイデオロギーに加担すると、そのイデオロギーがそれ自身の価値によるのではなく、暴力を味方につけることで他のイデオロギーを圧倒することが可能となるからだ。暴力を行使しうる政治権力者は様々のイデオロギーや思想の価値に対して中立的でなければならない。なぜなら、彼に社会が暴力を行使しうる権限を付与しているのは、これらのイデオロギーや思想があい争って社会の秩序が解体する危険を防止するために暴力の独占が必要であるからだ。彼がこの争いの場に一人の闘技者として参加すれば、暴力を背景とする彼が勝つに決まっている。子供のけんかの中に大人が入ってどちらかの子供に一方的に加勢するようなものである。強い大人が加勢したほうが、それ自身の価値によるのではなく勝つに決まっている。それゆえに政治権力者は価値の争いに当事者として加わってはならず、どこまでも中立的でなければならないのだ。
 民主主義のこんな常識は、政治学のどんなテキストにも書いてある。小泉首相や安倍官房長官は大学の教養課程で政治学を学ばなかったのだろうか。丸山真男の中立国家論を又聞きにでも耳にしたことがなかったのだろうか。

 第二。以上で述べたところから、政治権力者が「心の問題」で行動してはならないことは明らかだ。「心の問題」で行動するということは、思想やイデオロギーの争いの場に一当事者として登場することである。大きな大人が子供の争いの場に一闘技者として躍り出ることなのだ。小泉首相はみずからの靖国参拝を正当化するために「思想、良心の自由」を持ち出すが、何度も指摘されているように、この条文は価値の争いの場に参加する資格をもつ一般市民の自由を、政治権力者から護るためのものなのである。政治権力者にはその資格はない。彼はあらゆる価値に対して中立的でなくてはならないのである。それは不公平だと、小泉首相はぶつぶつ言っているが、民主主義の制度とはそういうものなのである。いやなら、こっそりと私人として参拝すればよかった。それもできないのなら、首相を辞めればよかったのだ。

 小泉首相や安倍官房長官は民主主義の常識がまるで分かっていない。一国の代表者が戦没者を祀る神社に参拝するのは当然だ、と言う。だがこの神社は普通の戦没者追悼施設ではないのだ。特定のイデオロギーを鼓吹する特別の施設である。そんなに参拝したければ、価値的に中立の追悼施設を作ってそこへ参拝したらよかろう。彼らはこうした施設を作ることにほとんど関心を示してこなかった。
 次期首相をめざす安倍官房長官は日本は「自由と民主主義」の国だ、と言う。北のほうのどこかの国に比べれば確かにそうだろう。だが政治権力の中立性とはどういうことかがまるで分かっていない人物を次々に首相の座に送り込む政党が他を圧倒し続け、そしてこの政党の支配を何十年にわたって支持し続けている国民をもつこの国は、どの程度「自由と民主主義」の国であると言えるのだろうか。首相の靖国参拝に異論を唱える加藤紘一議員の自宅に、一右翼団体の幹部が火を放った。暴力を直接行使する右翼団体と、知ってか知らずか暴力を背景に靖国参拝を強行する政治家とは、もちろん次元を異にする。だが全く似ていないとは言い切れない。次期は安倍総理ということになると、この「自由と民主主義」の国の右傾化に拍車がかかるだろう。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006/08/08

原爆投下後の陸軍病院

 1945年8月6日の午後だったと思うが、拙者は山口市郊外のとある民家の門の日陰に腰をおろしていた。演習中の休憩時間であった。雲一つない晴天だった。一緒に数人で休んでいた兵の一人が「広島に新型爆弾が落ちたげな」と誰にともなくポツリと言った。「どんな新型なのか」と誰も聞き返そうとはしなかった。聞いても精確な答えが返ってきそうになかったし、多分これまでよりも大きい型くらいのものだろうと想像したからである。あとでこの新型なるものがこれまでのとは全く性質を異にした途方もないしろものであることを知った。

 演習を終えて帰営すると、さっそく病院の当番兵の勤務が回ってきた。広島の原爆で傷ついた将兵が続々と山口の陸軍病院に回されてきたからである。一期の検閲を終えた兵は演習以外の日は各種の当番として勤務することになっていた。拙者は病院の当番は嫌いではなかった。というのは重い荷物を運ぶ使役などに回されると、荷物を肩にかつぐ体力がないので、監督の下士官にこっぴどく叱られるからである。病院の当番は体力が要らないので、拙者の好むところであった。病院へ赴くと、一人の患者の世話をすることになった。彼は目鼻立ちのはっきりしたなかなかの美青年であった。外傷は見当たらないのに、2、3時間ごとに血便が出た。拙者はそのたびに下着を洗った。青年は気の毒がった。彼の母と妹が見舞いにくると、彼は世話になっている人だと拙者を紹介した。彼女たちは当時田舎でしか作れないようなおはぎを重箱に入れて持参したが、もちろん彼は口にすることができなかった。彼女たちは拙者に息子、兄が世話になっていることのお礼を述べ、おはぎを食べるよう勧めた。仲のよさそうな一家であった。
 翌日、病院にきてみると、青年は亡くなっていた。昨日見かけはどこも悪くなさそうな人だったのに、一日のうちにこの世から去ってしまったのだ。なんというはかなさだろう。あの母や妹はその死をどう受けとめているのだろうか。病院では広島から送られてきた原爆患者がどんどん死んでいった。毎日何体かの遺体が院内の一角に安置された。拙者は、夜どおし立っているだけの楽な勤務だったので、人の嫌がる屍(しかばね)衛兵を志願した。

 あれから61年たった。核武装をしたがっている国家が次から次へと現れてきている。一方ではあらたに核保有をさせないように抑制をかける核保有の「先進国」がある。彼らは自分たちの核を廃絶しようとはせずに「後進国」を抑えようとしているのだ。やがて地球は核だらけになるだろう。あぶない均衡がいつか破れて世界核戦争という破滅の日がやってはこないだろうか。そんな日は決してやってこないと断言できる人は世界の領袖たちのあいだで果たして何人いるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »