政治権力者の靖国参拝は非常識
政治権力者の靖国参拝は民主主義の社会の常識に反するということを、拙者はこの欄で何度も書いてきた。同じ意見はいくつかのマス・メディアの社説やその他で、多少力点を異にするが幾度となく語られてきた。当たり前のことだが当たり前とは思わない人が結構多いので、繰り返し述べておきたい。
第一。靖国神社は戦没者を追悼する普通の施設ではない。それは特定の宗教あるいはイデオロギーを主張する特殊な施設である。それは侵略戦争を否定し、自衛のための戦争であるとする特定のイデオロギーを表明している。このイデオロギーにもとづいているがゆえに戦没者でもないA級戦犯の合祀に踏み切ったのだ(当時の厚生省の示唆によるのだが)。A級戦犯を合祀したからこの神社が特定のイデオロギーの担い手となったのではない。特定のイデオロギーの担い手であったからこそA級戦犯を合祀したのだ。
ところで、権力が一点に集中せず、多元的に分散している民主主義社会においては、政治権力者が特定のイデオロギーを担う集団に加担することは禁じられている。政治権力者は暴力を行使する特別の資格をもっているので、政治権力者が特定のイデオロギーに加担すると、そのイデオロギーがそれ自身の価値によるのではなく、暴力を味方につけることで他のイデオロギーを圧倒することが可能となるからだ。暴力を行使しうる政治権力者は様々のイデオロギーや思想の価値に対して中立的でなければならない。なぜなら、彼に社会が暴力を行使しうる権限を付与しているのは、これらのイデオロギーや思想があい争って社会の秩序が解体する危険を防止するために暴力の独占が必要であるからだ。彼がこの争いの場に一人の闘技者として参加すれば、暴力を背景とする彼が勝つに決まっている。子供のけんかの中に大人が入ってどちらかの子供に一方的に加勢するようなものである。強い大人が加勢したほうが、それ自身の価値によるのではなく勝つに決まっている。それゆえに政治権力者は価値の争いに当事者として加わってはならず、どこまでも中立的でなければならないのだ。
民主主義のこんな常識は、政治学のどんなテキストにも書いてある。小泉首相や安倍官房長官は大学の教養課程で政治学を学ばなかったのだろうか。丸山真男の中立国家論を又聞きにでも耳にしたことがなかったのだろうか。
第二。以上で述べたところから、政治権力者が「心の問題」で行動してはならないことは明らかだ。「心の問題」で行動するということは、思想やイデオロギーの争いの場に一当事者として登場することである。大きな大人が子供の争いの場に一闘技者として躍り出ることなのだ。小泉首相はみずからの靖国参拝を正当化するために「思想、良心の自由」を持ち出すが、何度も指摘されているように、この条文は価値の争いの場に参加する資格をもつ一般市民の自由を、政治権力者から護るためのものなのである。政治権力者にはその資格はない。彼はあらゆる価値に対して中立的でなくてはならないのである。それは不公平だと、小泉首相はぶつぶつ言っているが、民主主義の制度とはそういうものなのである。いやなら、こっそりと私人として参拝すればよかった。それもできないのなら、首相を辞めればよかったのだ。
小泉首相や安倍官房長官は民主主義の常識がまるで分かっていない。一国の代表者が戦没者を祀る神社に参拝するのは当然だ、と言う。だがこの神社は普通の戦没者追悼施設ではないのだ。特定のイデオロギーを鼓吹する特別の施設である。そんなに参拝したければ、価値的に中立の追悼施設を作ってそこへ参拝したらよかろう。彼らはこうした施設を作ることにほとんど関心を示してこなかった。
次期首相をめざす安倍官房長官は日本は「自由と民主主義」の国だ、と言う。北のほうのどこかの国に比べれば確かにそうだろう。だが政治権力の中立性とはどういうことかがまるで分かっていない人物を次々に首相の座に送り込む政党が他を圧倒し続け、そしてこの政党の支配を何十年にわたって支持し続けている国民をもつこの国は、どの程度「自由と民主主義」の国であると言えるのだろうか。首相の靖国参拝に異論を唱える加藤紘一議員の自宅に、一右翼団体の幹部が火を放った。暴力を直接行使する右翼団体と、知ってか知らずか暴力を背景に靖国参拝を強行する政治家とは、もちろん次元を異にする。だが全く似ていないとは言い切れない。次期は安倍総理ということになると、この「自由と民主主義」の国の右傾化に拍車がかかるだろう。
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