教育基本法改正案をめぐる衆院本会議での質問に対し、小泉首相や小坂文部科学相は次のように答弁している。
教職員が愛国心を指導するのは「職務上の責務」であって「思想、良心の自由の侵害になることはない」。
この見解については二つの解釈が可能である。一つは、教職員は生徒が愛国心を表す態度を指導すればよいだけであり(たとえば式場での国歌の斉唱)、したがって教職員の思想や良心のあり方が問われることはない、とするものである。
しかしこの「愛国心の指導」は「思想、良心の自由の侵害になることはない」という見解についてはもう一つの解釈が可能だ。それは、愛国心とは、思想や良心といった個人ごとに多様でありうる次元を超えた、日本人にとって一様に「当然のこと」とされる次元に属しており、したがって愛国心を指導しても彼らの思想や良心を侵害することにはならない、という解釈である。では愛国心を思想や良心の次元を超えた「当然のこと」と思っていない教職員に対し、この改正案を持ち出した人たちはどういう考えをもっているのだろうか。まさか日本人である以上そんな教職員は一人もいない、などと考えているわけではあるまい。改正案提出者たちはそれほどおめでたくはないだろう。だから「当然のこと」と思わない教職員に対しては、あたかも「当然のこと」であるかのように振る舞うことを要求しているのだ。しかしその場合、この教職員が「当然のこと」であるかのようなふりをしなければならないのなら、彼の「思想、良心の自由」は侵害を受けるのである。
二つの解釈のどちらが当たっているのか。もちろん、改正案はどちらであるとも述べていない。要は運用しだいなのだ。運用に際して一つの指針となる小泉首相たちの発言も、曖昧でどちらとも取れる。しかし改正案提出者たちの本音は後者の解釈にあるように思われる。だからこそ、この改正案は「思想、良心の自由」を侵害する危険があるのだ。
日本人はなんらかの点で、またなんらかの状況において、程度の差はあれ日本を愛する気持ちをもつ。そこまでは問題はない。問題が生じるのは愛国心をもつことが日本人として一様に「当然のこと」であり、そしてこの心情はあらゆる思想・良心の差異に先立つという全体性を、法の名のもとで規定することだ。そうなると、この心情は、個人主義や人類愛の、あるいは職業的良心や真理への愛の上に置かれることになる。
改正案提出の主要な動機は、個人主義や人類愛の優越を祖国愛の優越へと転倒させることにあるように思われる。しかし改正案提出者たちは個人主義を利己主義と混同しているばかりではなく、人類愛が愛国心に香気を与え、そうでなければ集団的エゴのレベルにとどまっている愛国心を昇華させる働きをもつことも見逃している。彼らはまた一方では経済政策に関しては新自由主義にくみし、規制緩和などで利己主義を奨励している。だがその政策は、利己主義の抑制をつうじて犯罪などによる社会秩序の不安定に対抗しようとする彼らの狙いと矛盾する。経済面で鼓舞された利己主義はこの領域にとどまることなく、道徳の領域にも広がってゆくだろう。利己主義の抑制が改正の狙いの一つであるなら、愛国心教育よりも個人主義や人類愛の教育に力を入れるほうが有効であると拙者は考える。それに、愛国心教育は排外主義へと国民を向かわせる危険をはらんでいるのである。
さまざまの粉飾を施してさまざまの矛盾を隠蔽しながら、この法案は為政者に好都合な人間の形成をめざしているのだ。
コメント
筆者の意見に基本的に賛成ですが、改悪案の真のねらいは実は別の所にあるのではないかと思っています。愛国心という比較的あいまいで当然視されがちな理念(私は全く異論を持っていますが)でオブラートに包みながら、実は後半の文章で延べられている「国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という内容こそが真のねらいだと。愛国心をいわば錦の御旗としてふりかざしながらその実、国民を金太郎飴状態にとじ込み、個々の意志を認めず、アメリカの属国として少なくとも海外で戦争に参加できる国づくりを明確に目指しているのです。
法政大学の五十嵐仁さんがご本人のホームページでこの趣旨のことを述べられていましたが、その中で宮沢元首相の発言が紹介されていました。小沢一郎ウェブの中で紹介されていたそうですが、次ぎのようなものです。「憲法九条の改憲を安易に進めて、安全保障で、米国(米軍)との連携追従が、なし崩しに進行すれば、日本国民……あなた達自身が、米国と共に米国の指示の元で、出兵させられることになる」全く的確に今の状況を説明している指摘です。
教育基本法改悪、共謀罪法案、憲法九条の改悪など、すべて戦争のできる国づくり、アメリカの属国として代理戦争出張戦争のできる状況づくりに、今この日本の国の政府は邁進しているのです。
もう一点、この教育基本法の改悪案では日本という国は単一民族の国だという前提をおいているようです。しかし、日本は単一民族の国ではありません。在日中国人、在日韓国人、在日ブラジル人、在日ペルー人などなど、実に種々雑多な他民族も共生している地域です。当然学校に通う生徒達の中にもさまざまな異民族が存在します。そのごちゃまぜの生徒達に対して一律の愛国心教育を行うことが果たして正しい教育の道になるでしょうか。未熟な生徒達の中に間違った感覚、排斥の風潮などを生んだりすることはないでしょうか。ただでさえ、人と違う所があるだけで安易にいじめに繋がってしまうような寂しくも厳しい状況が今の日本の学校現場には存在するのです。
新聞の世論調査でも愛国心を教育基本法に盛り込むことに賛成する意見の方が多いと報道されていますが、結局政府の虚偽宣伝にごまかされてしまっています。改正案の真のねらいは、何度も言いますが戦争のできる国づくり、アメリカの手先として戦争を行うことのできる国づくりです。この改悪案が通り、憲法九条改悪や共謀罪法案が日の目を見るように改悪プロジェクトが進行すれば、必ず徴兵制もしくは、自衛隊の軍隊への再編成、軍人募集の拡大安易化などの論議も出てくることになるでしょう。その時国民の自由な発言、意志主張は完全に封じられているでしょう。現政府のもくろみを多くの人が見抜き、選挙という唯一の変革の場で命を守る方向へ軌道修正していきたいものです。
投稿: 申榮逸 | 2006/05/23 10:37
「お国のために命投げ出す人を」-民主・西村議員-軍国主義教育を美化 2004年2月27日(金)「しんぶん赤旗」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-02-27/02_03.html
投稿: WW3 | 2006/05/23 11:55
「教育基本法改正促進委員会」はテロ組織? 2004/03/08 JANJAN
http://www.janjan.jp/government/0403/0403031636/1.php
投稿: WW3 | 2006/05/23 11:57
はじめまして、あしかと申します。
ひとつ、思い出したことがありました。
敗戦前、文部省は「国家神道は宗教ではない。国民全員にとって
当然の道徳である」とのたまっていたのですよね。
全くソックリの理屈です。
60年間、タイムカプセルにでも入って、校庭のすみっこにでも
埋まっていたのじゃないでしょうか、この人たちは。
今、国会で教基法質疑が行われてます。
さきほど自民・公明の質疑が終わったところですが、
聞く方も答える方も、「これが道徳」「これが善」「これが悪」・・・などという思想・信条に関わる判断を国家は
示してはならない、ということを全く理解していないんですねえ・・。
大体、日の丸・君が代に反対することが愛国心の表れであるという意思も十分あり得るわけだし、実際私などはそう考えていますが、私は政府からは「愛国心の欠如した人間(非国民)」だと決め付けられなきゃいけないわけですね。
さらに言えば、つまりそれは「道徳心の欠如」と解釈されることもあり得るわけですから、私は「人非人」とも決め付けられ得るわけです。
権力が「道徳」なんてことを言い出すと、恐ろしい結果に帰結するのは論理的必然だし、実際つい二世代前にあったことなわけですが、どうしてこうも反応が鈍い人が多いのでしょうか。
投稿: あしか | 2006/05/24 11:45
"この教職員が「当然のこと」であるかのようなふりをしなければならないのなら、彼の「思想、良心の自由」は侵害を受けるのである。"
それは無いでしょう?、あっては困ります。
彼らは教えることのプロですよ!。
役者は台本を貰えばなんでも演じるし商社マンは個人的気持ちからでは無くでも客に媚を売りますし、言ったら限がありません?。
プロは客(雇用主)の指示(この場合客は都と国)に従い法に触れない限り何でも出来るのがプロです。
「法に触れない限り」が問題ですが、如何考えても都は彼らの心の中までもを変えようとして居る様にはみえません。
投稿: ゆっきー | 2006/09/23 16:25