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2006/05/22

愛国心教育と思想・良心の自由

 教育基本法改正案をめぐる衆院本会議での質問に対し、小泉首相や小坂文部科学相は次のように答弁している。

 教職員が愛国心を指導するのは「職務上の責務」であって「思想、良心の自由の侵害になることはない」。

 この見解については二つの解釈が可能である。一つは、教職員は生徒が愛国心を表す態度を指導すればよいだけであり(たとえば式場での国歌の斉唱)、したがって教職員の思想や良心のあり方が問われることはない、とするものである。
 しかしこの「愛国心の指導」は「思想、良心の自由の侵害になることはない」という見解についてはもう一つの解釈が可能だ。それは、愛国心とは、思想や良心といった個人ごとに多様でありうる次元を超えた、日本人にとって一様に「当然のこと」とされる次元に属しており、したがって愛国心を指導しても彼らの思想や良心を侵害することにはならない、という解釈である。では愛国心を思想や良心の次元を超えた「当然のこと」と思っていない教職員に対し、この改正案を持ち出した人たちはどういう考えをもっているのだろうか。まさか日本人である以上そんな教職員は一人もいない、などと考えているわけではあるまい。改正案提出者たちはそれほどおめでたくはないだろう。だから「当然のこと」と思わない教職員に対しては、あたかも「当然のこと」であるかのように振る舞うことを要求しているのだ。しかしその場合、この教職員が「当然のこと」であるかのようなふりをしなければならないのなら、彼の「思想、良心の自由」は侵害を受けるのである。
 二つの解釈のどちらが当たっているのか。もちろん、改正案はどちらであるとも述べていない。要は運用しだいなのだ。運用に際して一つの指針となる小泉首相たちの発言も、曖昧でどちらとも取れる。しかし改正案提出者たちの本音は後者の解釈にあるように思われる。だからこそ、この改正案は「思想、良心の自由」を侵害する危険があるのだ。

 日本人はなんらかの点で、またなんらかの状況において、程度の差はあれ日本を愛する気持ちをもつ。そこまでは問題はない。問題が生じるのは愛国心をもつことが日本人として一様に「当然のこと」であり、そしてこの心情はあらゆる思想・良心の差異に先立つという全体性を、法の名のもとで規定することだ。そうなると、この心情は、個人主義や人類愛の、あるいは職業的良心や真理への愛の上に置かれることになる。
 改正案提出の主要な動機は、個人主義や人類愛の優越を祖国愛の優越へと転倒させることにあるように思われる。しかし改正案提出者たちは個人主義を利己主義と混同しているばかりではなく、人類愛が愛国心に香気を与え、そうでなければ集団的エゴのレベルにとどまっている愛国心を昇華させる働きをもつことも見逃している。彼らはまた一方では経済政策に関しては新自由主義にくみし、規制緩和などで利己主義を奨励している。だがその政策は、利己主義の抑制をつうじて犯罪などによる社会秩序の不安定に対抗しようとする彼らの狙いと矛盾する。経済面で鼓舞された利己主義はこの領域にとどまることなく、道徳の領域にも広がってゆくだろう。利己主義の抑制が改正の狙いの一つであるなら、愛国心教育よりも個人主義や人類愛の教育に力を入れるほうが有効であると拙者は考える。それに、愛国心教育は排外主義へと国民を向かわせる危険をはらんでいるのである。
 さまざまの粉飾を施してさまざまの矛盾を隠蔽しながら、この法案は為政者に好都合な人間の形成をめざしているのだ。

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2006/05/12

愛国者が威張った時代

 今から60年と少し前、拙者はある会社に就職しようとしてその会社が指定する医院で健康診断を受けた。30代と思える医師が痩身の拙者をみて、「だらしない生活を送っていることはこのからだを見ただけで分かる。これでは軍隊に入ってもお国の役に立てないぞ。もっとからだを鍛えろ」と、健康診断ならぬ人格診断を行った。拙者は格別だらしない生活を送っていたわけではない。骨細でひ弱な体格は、幼少期以来だ。この時期に母親が甘いおやつを制限なしに与えたので、ひょろひょろになってしまったのだ、と彼女は述懐していた。そのせいで骨細になったのかどうか、本当のところは分からない。いずれにせよ、成年に達した頃になっていくら鍛錬しても、筋肉がつくだけで骨が頑丈になるとは考えにくい。そこで、このひょろ長い体格をすべてだらしない生活のせいにして、拙者を蔑視し、非難する医師に憤りを覚えた。それだけではなく、立派なからだを作るのが本人のためではなくお国のためである、という彼の価値観も納得できなかった。さらにそのうえ、医院からの帰途、この医師の理不尽な「診断」に対し、ひと言も言い返せなかった自分自身にも腹を立てていた。
 お国のためにからだを鍛えておけと言うことは、極言すれば戦死するためにからだを鍛えておけと言うことなのだ。ところで当時は医者はめったに召集されることなく、またたとえ召集されても戦場で死ぬことはなかったのである。当時はこの医師のように自分は死なないのに若者に死ねと言う人がかなりいた。学校の教師たち、村や町の自治組織のリーダーなど。もちろん、かなりいたと言っても、人口100人のうち数名程度にすぎないのだが、それでも他の人々の多くが彼らに同調するか、同調しないまでも反対はしないという構成であったから、「お国のために死ね」と言われる側が受ける重圧はかなりのものだったのだ。この重圧のゆえに愛国者が威張っている、という印象が広がっていたのである。いろんな人がいろんな場で、入れ替わり立ち替わって愛国者の役割を演じた。そして、この愛国者たちの大部分は戦場で死ななくても済む人たちだったのだ。

 愛国心の涵養を教育の目的の一つとして教育基本法改正案に盛り込んでいる人たちは、はっきり意識しているかどうかは別として、究極においてはお国のために喜んで死ねる人間の形成をめざしているのだ。ところでこういう人たちは、他人に対してはお国への奉仕を要求しながら、自分たちは結構私利私欲を追求して恥じるところのない人たちなのである。そして仮に不幸にして戦争が起こった時、彼らは安全な場所にいながら若者たちに対してお国のために死ねと言う人たちであると、拙者は確信している。
 人間は何のために生きているのか。この問に答えることはむつかしい。そもそも「何かのため」にという問そのものが意味をもつかどうかさえ怪しい。それなのに「お国のために死ね」と言う人たちがかつていっぱいいたし、今も潜在的にはいる。しかし仮に人間は何かのために生きているとしても、お国はその中の一つに過ぎないのだ。それ以外の目的は沢山ある。それなのに愛国心教育はお国以外の何かのために生きようとする人々に対して、お国を優先せよと強制する圧力を生み出す危険性をはらんでいるのだ。
 お国を大事にせよという教育は、他国を侵略し、自国民の自由を弾圧する酷い結果の一因となった。もうこりごりだ。

 また私事に話は移るが、お国のためにからだを鍛えたかどうかは別として体格のよい若者たちは、戦場で数多く死んでゆき、医師に罵倒されたひ弱な拙者は生き残った。そのひ弱さのゆえに徴兵検査では召集がくるのがおそい第3乙種と判定されたためである。お国のためにからだを鍛えた若者がいたとすれば、彼はその立派な体格のゆえに若死にしたのだ。一方「お国のために死ね」と煽った人たちのほとんどは無事に生き残った。彼らは結構「自分のために生き」ていたからである。

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2006/05/01

愛国心の悪用

 閣議決定され国会に提出されようとしている教育基本法改正案の中に、愛国心の養成を教育の一つの目的とする条項が含まれている(第2条第5項)。公明党との折衝の結果、粉飾が施され、ゴテゴテした文章となっているが、自民党の結党以来の悲願だと言われる愛国心の養成が盛り込まれていることには変わりはない。
 愛国心は「自然」の感情であることは確かだが、それなら基本法にこれを目的として掲げる必要はないだろう。にもかかわらず、これを盛り込むことで、愛国心が悪用される危険が出てくることが問題だ。

 第一に、愛国心の称揚は排外主義的ナショナリズムへと通路づけられる危険がある。昨年上海などで大規模の反日デモが展開された時、これを苦々しく思った日本政府の要人たちのあいだで、この運動は中国政府が内政に不満をもつ民衆の攻撃的エネルギーを愛国排外主義へと向けさせ、内政批判をそらせた、という見解が出た。この見解がどの程度的を射ていたかどうかはまだ明らかではない。しかしともかく、この見解を述べた政府の要人たちは、愛国心は排外主義的ナショナリズムへと通路づけられること、そしてこの通路づけは政治権力の安定に利用されることをよく知っていたのだ。政府の要人たちだけではない。自民党議員の中にも、そしてまた日本人の一部の中にも、この認識は共有されていた。そして彼らすべては中国民衆のこの反日的態度を苦々しく思っていた。だとすれば、日本人のあいだで排外主義が盛り上がると、その対象となる国々は苦々しく感じることだろう。そして時の政治権力の担い手が内政への批判をかわすために、愛国心を排外主義へと向かわせようとしそれを悪用することもあるだろう。それらのことが分かっていながら、同じ道を選ぶことを望んでいるのだ。
 「自然」のままの愛国心でも排外主義を潜在的に含んではいるが、政治的人為によって拍車をかけられない限り、節度を越えて攻撃的となることはない。愛国心の称揚が法制化されると、他国に迷惑を与え、国際の平和的秩序を脅かす危険が生じるのである。

 第二に、愛国心の称揚の法制化は、国民一人びとりの内面の自由の表現を抑圧し、国民のあいだに陰うつな気分を広げる。もちろん政治権力は内面の自由を抹殺することはできない。しかしその表現を妨げることで、周囲への気づかいを増大させ、活気を失わせる。そして愛国心を特定の形で表現することを強制されると、その国そのものにさえ嫌気がさしてくる可能性もあるのだ。愛国心の法制化は形を求める。たとえば、学校の儀式における国旗の掲揚、国歌の斉唱である。強制はしないと政府は言っていたのに、国旗・国歌法ができたために、東京都教育委員会は生徒に国歌斉唱を指導するよう教職員に強制した。やがて戦前のように祝祭日には津々浦々の民家に国旗が掲揚される日がこないとも限らないのだ。
 時の政治権力の担い手はまた、支配層に有利な経済政策や社会政策を実行することで犠牲を強いられる階層を作り出すが、その人々の不満を、愛国心に訴えることで消散させようとするだろう。国のためなら応分の犠牲は我慢してもらわなければならない、という形で、政治権力の担い手は自分たちへ向けられる憤懣をかわすことができる。その憤懣のはけ口を外国へ向けさせる手もあることは先に述べた通りだ。
 そのうえまた、愛国心の強要は、時の政治権力の担い手が定めた型にはまらない行動に非国民的、反日的であるというレッテルを貼り、弾圧する道を開く。こうしてたとえば人類愛にもとづく行動も反日的と非難されることも出てくるのだ。そうなると、ヒューマニズムも利己主義の中に入れられ、息の根を止められるおそれが出てくる。拙者には人類愛のほうが祖国愛よりも倫理的に高い水準にあると思えるのだが、愛国心の称揚は人類愛を抑圧するところまでゆく可能性がある。

 何ら変える必要のない教育基本法を改正するのが自民党の悲願であり続けたそうだ。彼らは、教育が個人主義を助長し過ぎたので未成年者の犯罪の凶悪化などに現れる社会秩序の不安定がもたらされたのであり、ここで愛国心をもって個人主義を抑える必要がある、と考えているようだ。しかし愛国心が未成年者の犯罪の凶悪化を防ぐとは、正気な人にはとても思えないだろう。自民党にとって自分たちの思い通りにならないことがいろいろあった。その思い通りにならない一つの主要な原因を教育のせいにしようとしているのだ。思い通りにならなかったかどうかは別にして、いろいろの悪が発生しているのは、長年にわたりこの国の統治機構を動かしてきた自民党のせいでもある。もちろんすべての責任があるとは言えないが、かなりの責任はある。教育や個人主義に悪の責任を負わせるのは責任の転嫁だ。自分たちの支配にとって都合の悪いことと悪それ自体とを区別するところから議論を始めなければならない。

 連休が終わると、共謀罪の国会への上程が予定されている。その適用の範囲がどこまでなのか、はっきりしていない。悪くすると時の政治権力の担い手にとって都合の悪い言動にかかわった人がすべて、社会秩序の維持の名のもとで一網打尽に犯罪者とされそうな危険がある。密告も奨励されるようだ。自民党を勝たせ過ぎたツケが次々と回ってきているのである。

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