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2006/03/22

今日この頃のテレビ上の人物

 「・・・今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか」。これはきっこがブログのパラグラフを閉じる時の決まり文句である。「・・・今日この頃である」はかなり昔、ある新聞の読者欄「ひととき」で何遍も登場した主婦が、その文を閉じる時の決まり文句であった。その投稿内容はいつも身辺の日常的な出来事を語る随筆で、この言葉で終わるのにふさわしいものであったが、きっこの場合はいわゆる随筆からほど遠い内容のものが少なくない。彼女の政治の裏がらみのテーマに関する情報はその斬新さで週刊誌の水準をはるかに越えている。このブログへのアクセス数が圧倒的に多いのはそのためだろう。とりわけライブドア元幹部野口氏の死は謎めいているので、多くの読者が首を長くして彼女の新しい情報を待ち望んでいる。拙者もその一人だ。その死をめぐる民主党原口議員の議会での追及に対し、警察庁刑事局長と国家公安委員長とが自殺で片づけてしまいたいという姿勢を示しているだけに(この質疑応答もきっこのブログで初めて知った)、一層その謎を解明する情報が待望される。
 「今日この頃」の注釈が思いがけず長くなってしまった。さて本題「テレビ上の人物」に入るが、これらは大して長くはならないだろう。

 例のタイゾー議員が委員会をさぼって小泉首相に婚約の報告に赴いた。相手が忙しい人だから相手の都合に合わせて委員会のほうを欠席したのだろう。しかしそれほど婚約の報告を急ぐ必要があったのだろうか。それはともかく記者を前にしたタイゾーの応答は「大好きで 〔一拍〕 大好きで 〔一拍〕 ・・・」で始まった。この言葉と言葉とのあいだに一拍を置くしゃべり方は小泉首相そっくりである。人は敬愛する人物のしぐさやしゃべり方を知らず知らずのうちに模倣する。拙者はある小説の中でコーヒーを飲む時の友人のカップの持ち方、口もとへの運び方をまねる主人公のしぐさについて書かれた箇所を思い出す。この主人公は敬愛する友人をまねていたのだ。タイゾーのしゃべり方を聞いた時、拙者は小泉首相への敬愛が並々なものではないと感じた。彼は本当の意味で小泉チルドレンの中の真正のチャイルドであることには間違いない。もちろん拙者にはどうして彼をそんなに敬愛するのかはよく分からないのだが。

 将棋のNHK杯で丸山九段が渡辺竜王を破って優勝した。なかなかの接戦であった。ところでそこに解説者として登場したのは将棋連盟会長の米長氏である。優勝戦なのでこの大物が解説者に選ばれたのだろうか。この人の姿を見かけたのは例の園遊会以来である。前に書いたが、彼は天皇に向かい、学校の儀式での日の丸掲揚、国歌斉唱を全国にひろめますと、胸を張って発言した。その時天皇は「強制はいけませんよ」と彼のハリキリぶりをたしなめるかのような応答を行ったが、彼はその後ずっと東京都教育委員会のメンバーの一人として国歌の斉唱に加わらない教員を処罰し続ける立場を取っている。園遊会の時は寸時のスナップだったが、今度テレビ番組で見ると、じつに堂々とした体格で、ヤケに胸を張ってそり返っていた。昔の現役時代はもう少しほっそりしていたように記憶していたのだが。この人の勇姿を見ると、アメリカ海兵隊の退役大佐を連想してしまう。映画『アメリカン・ビューティー』に出てくるファシストの元大佐とイメージがダブってしまうのである。

 「世界野球」で日本が優勝した。二次リーグで奇跡的に生き残ったのだから、ツキもあったと思う。この大会をつうじて今まで拙者がいだいていたイチローのイメージがかなり変わった。渡米した頃はこの人はいわば野球道をひたすら究めようとするストイックな求道者に見えた。ただ最多安打の記録を達成した頃から、外部の目を意識した気取りが求道者らしからぬ不純なイメージをもたらしてはいた。だが集団へのかかわりにはあまり関心のない人物であるように思っていた。ところが今回の大会ではひたすら日本チームの勝利をめざす集団主義者のイメージが目立った。韓国チームに二度目に負けた時、彼は激怒し、「僕の野球人生で最も屈辱的な日」と言ったりした。この集団心の爆発に共感をいだいた人も多いだろうが、拙者はついてゆけなかった。その姿は求道者のイメージから遠く離れているからである。もちろん集団で闘う野球選手は独りで闘う宮本武蔵のような剣士と同じようには闘えないだろう。しかしそれにしても、今回のイチローの集団への没入ぶりは、拙者をいささか驚かせ、がっかりさせもしたのである。

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2006/03/11

四面楚歌の永田議員

 偽メールを信じた永田議員の発言を咎めて懲罰委員会が構成された。除名はむつかしいので、自発的な辞職の勧めが話題となっているようだ。公明党も、永田議員に何か恨みでもあるのか、彼にきびしく迫ろうとしている。一方、弱味を衝かれた民主党もこの攻勢に押されて自党議員を守り切れず、自らも進んで彼の辞職を勧めそうな気配もある。渡部国対委員長が「政治家は出処進退が一番大切だ」などと記者に語っていることにも、その気配が感じられる。この人は国対委員長になる以前は、十分な証拠をそろえたうえでないと議会で質問できないということになれば、野党議員は発言できなくなる、と永田議員をかばう趣旨の発言をしていた。状況の変化と国対委員長就任のせいなのだろう。
 永田議員の失敗は辞職に値するほどの重罪なのだろうか。多くの国民はそれほどの重罪とは思っていないのではないか。その失敗はたとえばテンパイになっていないのに思い違いをしてリーチをかけた、といったたぐいの、初心者にありがちなミスみたいなものではないか。もちろん、議会でのミスとマージャンの場でのミスとでは、その結果は大きく違う。しかしミスの性質は同じだ。他のプレーヤーたちや議員たちをだますつもりでやったのではなく、思い違いでやったのである。下手くそと笑われても当然だが、わざと思い違いをしたのではないことは、多くの国民にも分かっている。この思い違いのミスで辞職にまで追い込むのはバランスを失しているのではないか。
 永田議員は1回目の謝罪で偽メールを信じた罪を認めたが、なおライブドアと武部幹事長たちとのあいだに金銭の授受関係があったのではないかという疑惑はまだ払拭されていないから、調べを続けると付け加えた。この付言に対し与党側は立腹し、謝罪になっていない、と判断した。そこで永田議員は偽メールと分かったので、付言した疑惑そのものも払拭された、という趣旨の2回目の謝罪を行った。これで民主党の党としての謝罪と一本化したのである。しかし国民のあいだでは選挙戦当時ライブドアと武部幹事長とのあいだがあまりにも密接に見えたので、何らかのルートを通しての金銭的な授受があったのではないかと、まだ疑いをいだいている人が少なくないだろう。この疑いは持ち込まれたのが偽メールであることが分かったからといって、ただちに雲散しはしない。この点は永田議員が1回目の謝罪の言葉の中で言っている通りである。だから偽メールであることを知って一切の疑いが晴れたという2回目の謝罪には飛躍がある。無理やりに言わされた、という感じだ。無理がない場合もあるだろう。それは、初めはそんなことはないと信じていたのに、一通のメールがきて、疑いが生じた場合だ。そういう場合には、偽メールと分かれば疑いはすっかり晴れ、元の状態に戻るだろう。だが永田議員の場合は最初に疑いがあって、その疑いを裏書きするメールが手に入ったのである。この場合には、そのメールが偽であることが分かったからといって元の疑いがすぐに雲散することはないだろう。それに最初から疑いをもったのは永田議員一人ではないのだ。政界進出にも野心をもっていた大金持ちのホリエモンが、与党幹事長に「献金」しても不思議ではないと思った人は少なくなかっただろう。そしてこの疑惑はメールが偽と分かったところですぐ晴れるわけではないのだ。だから1回目の謝罪の時にまだ疑いは残っていると言った永田議員は正直だったのである。謝罪する時は徹底的に謝罪するほうが利口だ、永田議員は未練がましい、と非難する人もいたが、それは戦術上の問題であって、そのことが彼の罪を大きくする理由にはならない。
 今回の偽メール事件に見られたマスコミの反応も例によって弱い者いじめの感がした。弱いと見ると、寄ってたかって袋だたきにする。ホリエモンが大胆な手法で買収に乗り出した頃は、経済界に新しい機運を持ち込んだとして称揚していたマスコミが、彼に犯罪の疑いがかかっていることが分かると、手のひらを返したように罵倒し始めた。自分たちの不明はいっこうに恥じようとしないのだ。
 何年か前、辻元清美議員の秘書給与不正流用の件が問題になった頃、筑紫哲也の報道番組で、岸井成格毎日新聞特別編集委員と大宅映子の3人が辻元議員を吊し上げた。まるで検事が被告に論告を下すようであったことを今も憶えている。同席した河野太郎議員一人だけが検事ふうではなかった。議員になったばかりの辻元氏は党の方針(と誰もが思っていた)に事態がよく呑み込めないまま従っていたにすぎないのに、3人の追及は容赦はなかった。マスコミはこういう場になると正義の権化みたいに威張るのである。
 マスコミだって怠慢の罪を幾度となく犯しているではないか。いま問題になっている電気用品安全法は7年前に改正され5年前から施行されているというが、この間、その中味についてどれほどの報道があっただろうか。拙者は大新聞やテレビの報道番組のすべてを読んだり見たりしているわけではないので、そういう報道もあったかもしれない。だがあったとしても大々的なものではなかったのではないか。この悪法が4月から実施される段階になり、彼らはやっと報道し始めるのである。怠慢であるとしか言えない。
 永田議員は今や四面楚歌の中にいる。功を焦って軽挙妄動した愚かさは否定しようがないが、それにしても辞職せざるをえないほどの罪を犯したとは拙者には思えない。国民のかなりの部分も同意見ではなかろうか。

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2006/03/02

皇室の双系化、心配ご無用

 秋篠宮妃ご懐妊の情報が公開されたことがきっかけになり、自民党内に皇室典範の改正案作成先送りを求める議論が高まった。この議論の高まりは皇室の存続にとり父系制の維持が、不可欠であるとは言えないまでも極めて重要である、という意見にもとづいていると思われる。
 この意見は天皇の地位は父系により継承されてきたのだから、その伝統は維持されるべきであり、そうでないと天皇の威信が低下するのではないか、という懸念を表しているようである。しかし国民のどれくらいの部分が皇室の父系制にこだわっているのだろうか。それにこだわるのは少数ではなかろうか。皇室が存続すればよいと思っているのはそれのかなりの部分であろう。だがその存続が父系であろうとなかろうと、そんなことはたいしたことではない、と思っているのが、どちらかといえば多数ではなかろうか。そう推測してよい根拠は、今日の国民のあいだでは、父系の長子相続を数世代にわたり維持している家族はほとんどなくなっているという事実にある。しかしもちろん母系家族がふえたわけでもない。圧倒的にふえているのは、父系の血縁も母系の血縁も共に血縁と認める双系家族なのである。したがって父系の皇室を家族の望ましいモデルとする意識は国民のあいだにはもはや存在しない。だから皇室はどうしても父系でなくてはならず、そうでなければ皇室の威信はなくなるといったイデオロギーは、国民の生活の現実からあまりにも浮き上がっているので、それの信奉者はむしろ少数派であろう。
 古くから近代にいたるまで家族を含む親族の範囲を父系によって限定する仮構が最も広く広がってきたことは事実だ。それを母系によって限定する仮構を採用する社会もなくはなかったが、それは少数であった。いずれにせよこうした仮構により親族の範囲がとめどもなく広がることが防止されたのである。この仮構は何かを何かから区別することで混沌を整序しようとする象徴作用の1つの代表的ケースであると言えよう。象徴作用は人間の本質的な属性なので、その限り、親族をめぐる仮構から人間が免れることはむつかしい。父系の仮構は血縁関係の中の母系の部分をその関係から象徴的に外部へと排除した。すべての象徴作用は必ず排除を伴うので、母系を排除する仮構はこの象徴作用の一例である。しかしこの母系の排除は排除された部分を婚姻によって包摂するためのものでもあるのだ。この排除と包摂の反復が父系親族の外婚制のルールを支配する原理であった。一般化すれば、象徴作用は排除するだけではなく包摂することで、混沌の中から秩序を形成したのだ。たとえば男女の区別が同時に両性の相互牽引をもたらすのである。
 近代化が進行すると、巨大化した社会の中で父系親族集団をはじめ、多くの中間集団は自立性を失って解体してゆく。こうした社会の中では血縁関係を限定する系譜は問題にならなくなってしまう。なぜならここでは自立した中間集団一般が必要ではなくなるからだ。こうして父系家族に代わり双系家族が一般的となる。しかし血縁関係そのものが価値を失ったわけではない。それは自他を区別する1つの象徴として存続している。この象徴をさらに限定する系譜という二次的な象徴が価値を失っただけなのだ。
 こうした家族の現状に照らしてみると、父系の皇室を家族の望ましいモデルとする意識は国民のあいだにはもはや存在しない、と見てよかろう。天皇の地位の相続は父系であろうとなかろうと、血縁関係によって支えられていればそれでよいのだ。だから皇室が双系制となっても、その威信を失うことはないはずである。だから女帝が出現することがあっても心配は要らない。
 ここから話は変わるが、もし皇室典範が改正され、愛子さまが女帝になるという未来を想像すると、拙者個人としてはまことにお気の毒という感が起こってくる。秋篠宮が跡を継ぐとなると、お気の毒という感は全くしない。この人はタフな(傷つきにくい)性格であるように拙者には見えるからだ。ついでに言えば紀子妃もまたすごくタフに見える。拙者は皇太子夫妻がデリケートな心性の持ち主に見え、弟夫婦よりもずっと好きだ。このデリケートな人たちの愛娘が、天皇という辛い地位に就くのは気の毒に思えて仕方がない。だが俗気の強いタフな人が天皇になると、内閣総理大臣と区別がつきにくくなるのも困る。これはディレンマだ。しかしこの種の二者択一の状況が天皇制の存続を求める国民に課せられていると仮定すれば、その大部分は脆弱ではあるけれども俗気のない人格のほうが天皇にふさわしい、という選択を行うような気がする。これは拙者の希望的観測だろうか。

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