« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »

2006/02/20

ライブドア事件は教育のせい?

 安倍官房長官は首相と自民党総務会とがつどう会食の席(2月16日)で次のように語った。「ライブドア事件は規制緩和(のせい)と言われるが、教育が悪いからだ。教育は大事で、教育基本法の改正案も出したい」。
 これが暴論であるのは誰にも明らかだ。どうして教育が原因なのかさっぱり分からない。一方、規制緩和が一つの原因でありうることははっきりしている。規制緩和により、合法・非合法を分けていた既成の線が見えにくくなり、ここまで踏み込んでも合法だと思える希望的観測の範囲が広がる。そこでまず大丈夫だろうと思って踏み込んだ行為が違法と判定される場合が出てくる。ライブドア事件がこのケースに当てはまるかどうかは現段階では分からないが、その可能性はおおいにありそうだ。だから、この事件を規制緩和のせいにする議論はそんなに見当外れであるとは思えない。ただし、規制緩和により、すべての企業が危ない橋を渡ろうとするわけではない。しっかりした基盤をもつ企業はそんな危険を冒さないでも、着実に利益を上げることができるからだ。ところが、こうした基盤をもたない新興の企業は、功を焦って危険なグレイ・ゾーンに踏み込んでしまいやすいのである。
 しかしもともと小泉内閣の構造改革路線は規制緩和を一つの手段としており、利益追求のための創意工夫を奨励する路線ではなかったのか。だからこそ小泉や竹中はホリエモンの中に同志を見いだし、彼の当選を本気で支援したのではないか。そうではないというはっきりした反証を、安倍官房長官だって持ち出すことは困難だろう。規制緩和とライブドア事件とのあいだには確かに個別的な要因が介在してはいるが、しかしそれにもかかわらず、ライブドア事件は構造改革路線のもたらした一つの結果であることは否定できない。
 では安倍長官は何を根拠にしてライブドア事件を教育のせいにするのか。その根拠は規制緩和と事件とのあいだに介在する個別的要因にある。それはハンディキャップのゆえに企業をなりふり構わず私利へ向けて突進させる要因であり、この粗野な自己中心性にのみ事件の責任を負わせようとするのが、長官の、いや自民党内に広く広がっている論理であるようだ。この論理を推し進めてゆくと、教育にゆき着くのである。この粗野な自己中心性を養成したのは教育である、とされているようだ。この自己中心性を抑制するのは愛国心のほかにはない、だから愛国心の養成を盛り込んだ改訂版教育基本法が不可欠ということになる。ここまで論理が展開されると、あちこちに飛躍があってとてもついてはゆけないが、ライブドア事件を教育基本法の改正につなげる論理は何かと問うなら、およそ以上のようなつながりとなるだろう。
 しかし構造改革が接近をめざしている市場原理主義は個人や企業の自己利益を原動力としているのだから、粗野であろうと何であろうと、自己中心性を否定することは市場原理主義と矛盾する。この矛盾をかかえているのが小泉内閣の本質である。その本質は自己利益の際限のない追求をめざすグローバリズムとそれを抑制しようとするナショナリズムとの対立の一ヴァージョンなのだ。このヴァージョンの特殊日本的な相として、アメリカに中心のあるグローバリズムと小泉首相の靖国参拝との矛盾が立ち現れているのである。
 ところで、教育が立脚しているのは文化的普遍主義であって、一国の、そしてとりわけ一政府の個別主義ではない。教育を国家の、あるいは政府の自己利益に従属させようとする教育基本法の改正は、教育の破壊をめざすもの以外の何ものでもない。文化的普遍主義を経済的グローバリズムと同一視してはならない。グローバリズムがある程度抑制されても一国の経済が破壊されることはないが、文化的普遍主義が部分的にせよ抑制されれば、教育の目標は人間形成から国家への奉仕へと変質してしまうのである。

 安倍氏は一昨年に長崎県佐世保市で起きた小6女児による同級生殺害事件の直後にも、「大変残念な事件があった。大切なのは教育だ。子供たちに命の大切さを教え、私たちが生まれたこの国、この郷土のすばらしさを教えてゆくことが大切だ」と、教育基本法改正の必要性を強調している。命の大切さを教えることと愛国心の養成とのあいだの非連続を一気につなげてしまっているこの欺瞞的論法に、つられてはいけない。
 この人たちに共通する論法の特徴は、すべての「悪」の原因を教育に求めるところにある。教育へのこの偏った怨念はどこからくるのか、追究に値する問題である。

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2006/02/10

麻生外相小児的に威張る

 お坊ちゃんが「僕のパパはお金持ちなんだよ、外車も持っているよ、軽井沢には別荘があるんだよ」などと、相手構わず威張っている。麻生外相の近頃の発言を聞くと、このお坊ちゃんのイメージが浮かんでくる。ただ、この麻生坊やは、毛並みがよいと言われている割には品が悪く、年を食っているのでずる賢い。
 麻生外相は最近福岡で講演した際、日本政府は植民地台湾で義務教育を持ち込んだため、この国は極めて教育水準が高く、今の時代に追いついている、と自慢した。台湾を「国」と言ったので、中国の新華社通信がすぐに批判した。また中国外務省報道局長も、台湾の植民地化が中国人民に深刻な災難をもたらした歴史を歪曲している、と非難した。事実、台湾の植民地統治はそんなにスムーズに進行したわけではなかった。平地では「漢民族」の武力蜂起、山地では「蕃族」と呼ばれた原住民の頑強な抵抗があった。日本による統治の安定は、これらの勢力を制圧し討伐した長年にわたる軍事作戦の結果なのである。日本の統治は善いことずくめではなかったのだ。統治の一面であるこうした暗い部分に麻生外相はもちろん言及しない。この部分について知らなかったのかもしれないし、知っていても植民地統治にはありがちな取るに足らない部分と思っていたのかもしれないし、こうした講演の場で語るにはふさわしくないと思っただけかもしれない。いずれにしても、この軍事作戦により被害を受けた人々の側に立てば、暗い部分を無視して善政の面だけを自慢する麻生発言に腹が立つのは当然であろう。付け加えれば、この軍事作戦での日本側の戦没者はもちろん靖国に祀られているのである。
 福岡でのこの発言には韓国政府への当てつけが隠されているように感じられる。朝鮮人の創氏改名は自発的だったと日本の統治をバラ色に染めた麻生外相にとって、今の韓国政府はその統治の暗い部分だけを掘り返し、かつての恩恵への感謝を忘れている、と言いたげなのだ。小児は自己中心的で他者の目に自分がどう映っているかに気づかない。麻生外相は中韓の批判的な視線に気づかないわけではないが、侵略し支配したこれらの国民が過去と現在の日本政府に刃向かっていることに立腹しているのである。外相が、首相の靖国参拝に文句をつけるのは中韓だけだ、と一方的に非難する(首相自らも衆院予算委員会で同じことを言っている)のも、この小児的自己中心性の表れである。
 前回にも触れたが、麻生外相は、日本軍人は天皇陛下万歳と言って戦死したのだから、天皇陛下が靖国に参拝するのが望ましい、などとまたもやお騒がせ発言をおこなった。しかし天皇陛下万歳と言って死んでいった日本軍人がはたしてどれくらいいたのだろうか。拙者は戦場体験のある人を幾人かは知っているが、そういう話を一度も聞いたことはない。拙者が知っているのは「天皇陛下万歳と/残した声が忘らりょか」という『露営の歌』の一節のみである。しかし拙者個人の経験は極めて限られたものだから、実際にそう言って死んだ人もいたことだろう。だがそれは少数派と言ってよいほどの数ではなかったか。実際、日本軍人の戦死の大半は、前線への補給が絶たれた太平洋戦争の末期に集中しており、死因の多くは飢えと病いであった。飢えと病いで倒れた兵士などが、天皇陛下万歳と唱えて死んでいったとはなかなか想像しにくい。かりにそう言って死んでいった人々がいたとしても、ほかに適当な言葉がなかったためではないか。お母さんと言って死んでいった兵士たちが多かったという説もある。いずれにしても、日本軍人が一般に天皇陛下万歳と唱えて戦死したというのは事実というよりもむしろ神話だろう。
 麻生外相自身が戦死者と本当に同一化しているかどうかは疑わしい。他人の身になれるような人とはとても見えないからである。自己中心的な小児は他人の痛みはわからないのだ。だから彼が戦死者の身になって天皇に靖国に来てほしいと本当に願っているとは思いにくいのである。
 麻生外相は天皇の靖国参拝の実現をめざして運動するつもりはない、と言っている。だからそれは単なるお騒がせ発言なのだ。しかし底意はある。首相の靖国参拝に対しての中韓の外交面での反応に腹を立てているのだ。麻生外相自身も韓国の外相には会えたが、中国の外交責任者には会えるにいたっていない。だがそれは自分たちの蒔いた種でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »