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2006/01/31

軍隊体験と靖国参拝

 読売新聞グループ会長の渡辺恒雄氏は最近テレビや雑誌で小泉首相の靖国参拝をきびしく批判している。彼は新兵として入隊し、上位者から理不尽な虐待を受けた。こんな軍隊を動かし戦争を始めた一部のA級戦犯が、靖国に祀られている。こうした神社に首相は参拝すべきではない。これ以外のことを彼は語っているかもしれないが、この発言には拙者は全く同感である。
 拙者も召集されて短期間ではあるが山口の連隊にとどまり、たいした理由もなく罵倒されたり殴られたりした体験から、ナベツネ氏の言うことはよく分かる。戦後読んだ野間宏の『真空地帯』ほどではなかったが、新兵いじめはかなり酷いものだった。2ヵ月ほどして痔を悪くし、陸軍病院に入院したが、そこでも同室の古参上等兵に彼が彫っていた太い竹で、たいした理由もなしに頭を殴られ脳天がしびれたことは一度や二度ではない。拙者だけではなく他の新兵たちも同様であった。
 彼は中国の戦線で民家に押し入り略奪を繰り返していたことを得意気に語っていた。殴っているこの痩せた小男の目は殺気を帯びているかのようにギラギラしていた。同じ病室にいた野戦帰りは曹長が一人、伍長が一人であった。彼らは温和で、戦場のことは一切口にしたことがなかった。しかし彼らは古参上等兵の新兵への暴行をたしなめようとはしなかった。上位者の下位者に対する制裁はよほどのことがない限り制御されないのが、日本軍隊の慣行であった。
 ギラギラした目の上等兵は、この病室でと同じように中国大陸でも虐待を行っていたことだろう。被占領地の民衆は自国軍隊内の新兵よりもさらに下位に属しているので、病室内よりももっと酷いことをしていたことだろう。そして温和な下士官や士官がいたとしても、彼らは部下の暴虐を制止はしなかっただろう。病室を例に取ったので兵だけが加虐行為に傾くような書き方をしたが、実際には下士官の中にも、また士官の中においてさえも、戦場で弱い者いじめの蛮行を楽しむ人たちは少なくなかっただろう。
 靖国神社内の遊就館は戦争によってかつての西欧の植民地が解放されたとうたっているそうである。しかし中国を解放しようとした(と言われる)戦争で中国の民衆が日本軍隊によって酷い目に遭っている事実は、植民地解放の理念と全く矛盾している。その他の地域でも日本の軍隊による旧植民地の統治は、住民から十分な支持を得ていたとはとても思えない。弱い者いじめが得意な日本軍隊は、いや日本人のかなりの部分さえもが、異民族の統治には向いていないのだ。西欧による植民地化は日本の異民族統治よりももっと酷いものであった、と言う人もいる。また日本軍隊での新兵いじめに関しても、およそ軍隊なるものはどこの国でもそういうものなのだ、と言う人もいるだろう。拙者はそういう自他の比較をするデータを持ち合わせていないので、この種の意見に実証をもって抗弁することはできない。しかし他国がどうであったとしても、弱い者いじめが得意な日本の軍隊による占領をもって始まる異民族統治が、過酷なものになることは疑いえない。
 拙者は軍隊で日本が戦争に負けたのを知った時、本当によかったと思った。かりに戦争に勝ったとしたら、日本の軍国主義体制は国内で存続するだけではなく、日本に支配される諸民族にも及び彼らは酷い目に遭うことになっただろう。「お前、そんなに嬉しいか」と軍国主義にハマっている一下士官は、拙者の心底を見透かして憎悪のまなざしを向けた。
 ナベツネ氏は小泉首相が靖国参拝するのは戦争を知らないからだ、と言っていた。特攻隊員の心情を想像して落涙する首相は戦争の限られた一面に陶酔しているだけなのだ。彼は戦争のもつ地獄のような部分に無知なのである。あるいは見て見ぬふりをしているのである。首相の尻馬に乗って天皇陛下も靖国へ行くのが望ましいという趣旨の発言をした麻生外相にいたっては、これはもう正気の沙汰とは思えない。中韓を挑発することで、どれだけの外交上のメリットがあると言うのか。マイナスばかりだ。だとすればこの発言の底意は何か。国民の中の右翼的な部分からのウケを狙ったものとしか思えない。だがその代価はあまりに高くつくので、この発言は正気の沙汰とは思えないのだ。
 拙者が入営したのは今から61年前の1月27日であった。雪が舞い、寒い日であった。拙者は兵営の外で見送ってくれた母の姿を見、これでこの地獄から生きて出られることはなかろう、と思った。

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2006/01/21

小泉首相の無責任倫理

 前回で小泉首相の靖国参拝に対する内外の批判が「理解できない」と言う首相の本音隠蔽を取り上げた。今回はその続き。
 首相はトルコで「参拝自体がいけないのか、中国、韓国がいけないと言うからいけないのか、今後はっきりしてほしい」と同行記者団に語った。「はっきりせよ」と首相が語りかけている「言論人・知識人」の中に拙者が入るかどうかは分からないが、それでもこんなふうに居丈高に詰問している首相の姿を思い浮かべると、その資格がないとしても、あえて「言論人・知識人」の代弁をしたくなる。「どちらか一方というわけではない、両方なのだ」と。ただし、これだけでは小泉流のブッキラボー節(ぶし)となるから、コメントが必要だ。
 まず、植民地化と侵略を正当化するPR館を備えた神社に、これらを反省すると公言した(バンドン会議などで)首相が参拝するのは「いけない」。次に中韓両国がこの参拝を咎め、そのため外交がゆきづまっているから「いけない」。ただし、この2つの「いけない」は、別々で無関係なのではない。中韓両国の反発が理にかなわない場合のみ、どちらかの点で「いけない」ということになるのだ。しかし実際にはこの反発が理にかなっていると思えるから、両国が「いけない」と言っていることをしてほしくない、と靖国参拝に反対せざるをえないのである。
 首相は「一国民」として参拝すると言ったりしている。しかし一方では内閣総理大臣小泉純一郎と記帳したりもしている。この人はリベラル・デモクラシーの体制というものが全く分かっていないのだ。カメラの放列の前で参拝する以上、それは、その参拝の形式が多少簡略化されることがあるとしても、政治権力の中枢的な担い手(権力者と略称)として参拝していることになるのだ。彼がどんなに「心の問題」だと言い張っても無駄である。彼が権力者である限り、彼の参拝は政治問題化される。たとえば上坂冬子が参拝する(彼女が実際に参拝しているかどうか拙者は知らないが)のと同じ扱いをされることはない。上坂の参拝は政治問題化されることはありえないのである。
 かつてマックス・ウェーバーという社会学者が心情倫理と責任倫理とを区別した。前者は自らの心情に忠実に行動する倫理であり、後者は自らの行動の影響を考慮して行動する倫理である。前者においては心情の純粋さの程度で倫理性の程度が左右され、後者においては行動の結果への配慮の程度で倫理性の程度が左右される。この2つの倫理を区別したウェーバーは、政治家に求められるのは心情倫理ではなく責任倫理だと言っている。政治家にはなぜ責任倫理が求められるかと言うと、彼が心情の赴くままに行動すれば、その行動の影響が普通人よりもはるかに広い範囲に及ぶからだ。それゆえ政治家は自らの心情の表出に禁欲的でなければならないのである。そうでないと国民に迷惑が及ぶ。そのうえまた、前に書いたことだが、「思想・良心の自由」や「表現の自由」は国民に保障されているものであって、権力者に保障されているものではない。それは、国家機関が個人の心の中に介入したり、その言論活動を制圧してはいけない、ということなのであって、権力者が特定の個人的思想を表現する自由を保障するものではない。というのは、権力者は暴力を行使することができるので、この暴力を背景に自分の思想・良心を無力な国民一般に押しつけることも可能となるからだ。だから、権力者は「心の問題」にハマっては「いけない」のである。
 小泉首相は靖国参拝は自分の「心の問題」であるのにとやかく非難されることが「理解できない」とぼやいている。ぼやくだけではなく、自分の行動を理解しないほうが悪い、と言わんばかりである。この人はリベラル・デモクラシーとはどういうものであるかが全く分かっていないのだ。それに、この人の靖国参拝が純粋に心情倫理から出たものであるかどうか、疑わしい。もしそうであるなら、首相になる以前から参拝を行っていただろうし、またこの参拝を総裁選の公約に掲げたりすることもなかっただろう。こんな首相に無反省に追従して靖国参拝を続けそうな次期総裁候補が2人もいる。いい加減にしてほしい。

【追記 01/23】
上記の記事で、小泉氏の靖国参拝は首相就任前から続けられているものではない旨のことを書きました。これはある新聞記事やあるテレビ番組の座談会での出席者の発言をもとにしたものです。これに対し、「首相は初当選以来ほぼ毎年、終戦記念日に靖国神社に参拝してきた」という共同通信の記事を示すコメントが寄せられました。共同の記事への反証データを持ち合わせないので、拙者の記事の当該部分を削除します。しかし政治権力の中枢的な担い手は心情倫理にではなく責任倫理に立つべきだという記事の趣旨には変わりはありません。また、首相の参拝が純粋な心情倫理から出たものとは思われない、との拙者の印象も変わりません。

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2006/01/11

小泉首相のブッキラボー節(ぶし)

 小泉首相は年頭の記者会見で自分の靖国参拝への言論人や知識人の批判が「理解できない」と語り、併せてこの参拝を外交問題にしようとする外国政府の姿勢も「理解できない」と語った。わりとしゃべっているように見えるが、かんじんの点に関しては例によってブッキラボーである。
 この人は自分の主張を簡単にワン・フレーズで表現するのが得意であり、たとえば究極においてはただ「カイカク、カイカク」と連呼するだけで終わる。誰の利益のためのカイカクなのかがいっこう明らかにされないままで終わるのだ。お人よしの国民の多くが騙されて、カイカクは「いいんじゃないの」と彼を支持するのは、カイカクの中味の説明が削除されているからだ。郵政民営化はかなりの部分においてアメリカの企業に役立つ、などと説明すれば、先般の衆院選で自民党が大勝利することはなかっただろう。
 靖国参拝に関しても同じことだ。首相はこの行動を「心ならずも戦場に赴き、命を失った方に哀悼の意をささげるため」とかねてから説明してきた。その間に内外からいろいろの疑問が出てきても、いっこうにそれらの疑問に答えようとはしない。たとえば靖国にまつられているA級戦犯の死の大部分は戦没ではなく刑死によるものであり、また彼らは自分で戦場に赴いたのではなく、逆に戦没者たちを「心ならずも戦場に赴」かせた張本人なのである。そうした彼らを一般の戦没者と共にまつる靖国に一国の首相として参拝することに疑問が投げかけられてきたにもかかわらず、首相はそれに答えようとはせず、何度も同じ説明を繰り返すだけなのである。
 首相は上述の疑問そのものが「理解できない」のだろうか。そんなことはあるまい。中学生にでも分かる問である。首相は分かってはいるが、その問に答えたくないのだろう。なぜ? 説明を補足してゆくと、答えにくい問が次つぎに誘発されて出てくるからだ。同じ戦争で死んだのだから、A級戦犯も他の戦没者一般と異なるところはない、加害者も被害者も同じ日本人だ、戦没でも刑死でも同じことだ、すべては戦争による死なのだ、と首相が説明を補足したとしよう。おそらくこれが首相の本音であるようだ。しかし彼は決してこうした補足を口にしない。口にすると、中国への侵略の罪などは存在せず、その侵略から始まった戦争は日本国民の自衛のための戦争ということになってしまうからだ。そうなると、極東軍事法廷の判決も無効であると主張するところまで行かざるをえない。そこまで行ってしまえば、この法廷を構成した国々、とりわけ気になるアメリカの不興をも買うことになってしまうだろう。これは今の段階では危険な展開となる。だから小泉首相は上述の疑問になんら答えようとはせず、例のブッキラボー節を繰り返すにとどめるのである。
 しかし小泉首相が説明の補足を避けるのはもう1つの理由があるのかもしれない。たとえば彼が哀悼の意を表する対象はA級戦犯を除く一般の戦没者だけであると想像してみることもできる。これなら例の「心ならずも」から始まる説明趣旨と一致する。しかしもし対象は限定されているという補足を加えると、彼が総裁選に打って出るために訴えかけた靖国の遺族会の中から公約違反だと憤慨する声が出てくるだろう。これは首相としては何としても避けたい反応である。こうした理由で補足を避けている可能性も考えられなくはない。しかしまあ、その可能性は薄い、と拙者は思う。
 いずれにしても、首相が同じブッキラボーな説明を繰り返すだけなのは、問題が波及するのを避けるためなのだ。その危険を回避するために本音を語らないのである。それが彼の戦略なのだ。そしてこのブッキラボーな説明では靖国参拝の動機が理解し難いという人々に対して、参拝を批判すること自体が「理解できない」と、責任を相手におっかぶせるのだ。
 次の首相の有力候補の一人と目されている安倍官房長官も、このところ民放番組の中でブッキラボー節を踏襲する姿勢を示している。首相の靖国参拝の理由をこれ以上説明する必要はなく、それを理解できないという理由で首脳会談を拒む外国のほうがけしからん、と言うわけだ。不十分な説明しかしていないのに、それをそのままで理解せよ、と押しつけるのである。安倍長官は今度の総裁選では靖国問題を争点としたくない、と言っている。しかし靖国問題は日本の対アジア外交の1つの鍵となってきた。その外交がスムーズに行われるためには靖国問題は避けては通れないのだ。そしてこうした事態をわざわざ引き起こしたのは首相自身なのである。
 小泉首相は国民の支持があることが次期自民党総裁の必要条件である、と言っている。国民に人気があるのがよほど得意なのだ。しかしヒトラーも国民の人気を背景にして独裁者となった。人気がすべてではない。首相がますます調子に乗ってブッキラ暴君とならないよう国民は監視していなければならない。

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