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2005/12/21

小学生に否認された大学生の凶行

 12月10日の午前、宇治市の学習塾でアルバイト講師の大学生(23)が個別指導を断られて関係がなくなっていたはずの小学6年生の少女(12)を密室に連れ込み、包丁で刺殺した。虫の好かないお兄さんとはいえ塾生である以上逃げるわけにもゆかず、2人だけの状況に置かれて、刃物を向けられた少女はどんなに怖かったことか。本当にかわいそうな最期であったと誰もが思ったことだろう。彼女がいなければ「楽になると思った」とかこれで「トラブルがなくなる」などと、この男は警察で供述しているという。楽になりたいのなら、人を殺す代わりに自分が死ねばよいのに。ところが、自分が死ねないから人を殺すのがこうしたたぐいの犯罪者なのである。
 加害者と被害者とが講師と塾生の関係にあったり、凶行の現場が塾の教室であったりしたことで、塾の管理体制という問題がクローズアップされた。それは確かに何とか改善しなければならない問題ではある。しかし別の文脈で見れば、この事件はいわゆるストーカー殺人の一変種でもあるのだ。
 ストーカーは相手と良好な関係を結ぼうとして相手を執拗に追い求める。良好な関係がついに得られないことが分かった時、時としてストーカー殺人が起こる。相手を殺してしまえば、欲望の対象そのものが消失すると同時に、それを追い求める主体自身も破滅してしまうのだから、合理的に考えればそれは無意味な行為である。しかしあえてこの非合理的な行為を強行する者も出てくる。それは相手に否認されてきた自分の存在そのものから、その行為により解放されるかのように思うからだ。この塾講師も生徒に否認されてきた自分から解放されたかったのだ。彼は「楽に」なりたかったのである。
 この事件を通して2つの問題点が浮かび上がってくる。その1つは殺害にまで及ぶ対象へのこだわりの強さであり、もう1つは対象が12歳の女児であったことである。
 まず第1の点に関して。1990年代からテレビゲームが普及し、子供たちはそれに熱中して対人関係が稀薄化した、と言われてきた。23歳の大学生はそういう子供時代を経験したとされる世代に属する。しかし子供が独りで過ごす時間が仮に多くなったとしても、そのために対人関係への興味を失い他者に是認を求める傾向が弱くなるとは思えない。むしろ逆に、独りで過ごす時間が多くなると(テレビゲームへの熱中だけではなく、少子化や親の共稼ぎなどのために)、対他欲望は強まると考えられる。しかし一方、この欲望の肥大に反して、他者の是認をかち取る能力のほうは衰退している。このギャップが犯罪の引き金となるのだ。このアルバイト講師は大学の図書館で2度にわたり、女子学生の持ち物を盗もうとした。金ほしさよりもむしろ関係をつけたい欲望が屈折した形で出てきたのだろう。この場合も性欲を伴う対他欲望が能力を上回っているために惨めな結果を招いた。
 第2の点に関しては、かつては(いつの時点であるかははっきり言えないが)人が是認を求める他者は主として親、教師、上司といった年長者であった。重要な他者はおおむね自分よりも年長の人たちであった。高度産業化が進行するにつれ、重要な他者は年長者から同年齢や年下の人々へと移ってゆく。今回の事件の場合は、個別指導という制度が手伝って12歳の女の子が彼にとって重要な他者となってしまった。彼女の是認がなければ、自分の存在全体が否定されてしまうかのように追いつめられていたのだ。彼は包丁2本とハンマーを用意して彼女を密室に連れ込んだが、彼女が翻意して彼の指導下に戻ることに一縷の期待をいだいていたかもしれない。ところが彼女から「あっちへ行って」と最終的な通告を受けた。その瞬間、彼の居場所がこの世界のどこにもないという事実に彼は直面してしまったのだ。
 対他欲望の肥大と他者の是認をかち取る能力の衰退とのあいだのアンバランス、そして重要な他者の年齢層の低下、これらは今日の若者が置かれているかなり大きな潮流であるように拙者には思われる。たとえば、大阪市での姉妹殺しの犯人(22)も強盗よりはストーカーに近いようだ。しかし若者が上述の2つの潮流の中に置かれているとしても、ストーカー的な犯罪にいたるのはごく僅かの部分である。その他の部分はストーカーに限らず犯罪一般とも無縁なのだ。ではどうしてこの塾講師は凶行に及んだのか。狂気に陥っていたのだろうか。そうかもしれない。だが、それではどうして狂気に陥ったのか。この種の行為がすべてそうであるように、どこまでいっても謎は残るだろう。我々にできることは、この種の行為が起こりそうな条件を探索することだけなのである。

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コメント

初めまして。お邪魔致します。

 先生の指摘される《重要な年長者へのあくなき是認欲求》という旧世代の極端な例が、三島由紀夫=平岡公威ですね。三島は、華族から平民に降嫁した祖母夏子の怨念というか、欠如感が幼少期に刷り込まれてしまったのかも知れません。彼の場合、他者是認欲求の挫折が、他者へと暴走せず、自己へ向かった訳ですね。“天皇”や“憂国”などの一見右翼的行動は、‘天才(と呼ばれたい)’三島の
、他者に知られたくないがための、挫折の隠蔽行為に過ぎないのでしょう。
 先生から言葉を得て、スッキリしたよい気分にさせて頂ました。新しいblog人生のでご活躍を祈願しております。また、お寄りします。

投稿: renqing | 2005/12/23 04:30

「他者の是認を勝ち取る能力」って一体なんですか? 
本当に昔の人はこの「能力」が優れていたのですか?
「コミュニケーション能力」じゃないけどこういうあいまいな言葉による「個人の能力への還元」が一番危ないと思います。ろくに考えられもせず上滑りで広がっていくだけですから。

投稿: sisi | 2005/12/28 00:10

本文をよく読めばわかるはずだと思っていたのだが、昔の人が「他者の是認をかち取る能力」に優れていたと言っているのではなく、この能力と欲望とのアンバランスが今日の問題だと言っているのだ。上記事件の塾講師を例にとれば、子供の気持ちをひきつける十分な能力がないのに、その子を支配したいという欲望に動かされてしまう、ということ。以前であれば、能力がなければ欲望も抑えられていたが、今日では能力がないのに他者への要求が強いという現象が目につく。sisiさんのコメントもこの傾向の一例だと拙者には感じられるのだが。

なお、今回は特別にコメントへのコメントをしたが、原則としてコメントに対する返事は行わないので、この場をかりて断っておく。

投稿: 激高老人 | 2005/12/28 02:56

SISI氏と激高老人氏とのやり取りを拝見し一言。

 SISI氏の抗議に対する激高老人氏の応答は、少々訂正が要るようにも感じます。本文には「この欲望の肥大に反して、他者の是認をかち取る能力のほうは衰退している。」と記されています。これを通り一遍に眺めれば、現在の若者の《他者の是認をかち取る能力》が衰退している、とも読めます。この誤解が回避されるには、「この欲望の肥大に反して、他者の是認をかち取る能力が過去の若者と比べて不変とするならば、その能力は(相対的に)衰退している、と言わざるを得ない。」とでもされていれば無用な誤解は避けられていたように思うわけです。回りくどい表現で、切れのある本文を台無しにしそうですが。当方文才がないのでご容赦願います。

 ついでといっては何ですが、私からも質問を一つ。
 本文で、「高度産業化が進行するにつれ、重要な他者は年長者から同年齢や年下の人々へと移ってゆく。」と述べられています。この《高度産業化の進行》と是認欲求の対象が低年齢化することの因果関係が今ひとつ私にはピンときませんでした。
 既に、コメントへの応答は原則行わない旨、宣言されておられるので、いつか記事にされる機会があれば当方幸いです。

 明年もご健在ぶりを示されることを確信しております。敬語の使い方が適切に出来たか不安な、renqing でした。

投稿: renqing | 2005/12/31 04:41

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