トップページ | 2006年1月 »

2005/12/31

八つ当たりテレビ・ウォッチング

 12月10日から寒くなりはじめ、12日にははやくもピークに達した。例年より1ヵ月はやい。居室を一歩出ると、隙間風が古い家屋に入り込む。ぐいぐい引っ張る犬のリードを握る手は凍りそう。1ヵ月損をした。どうしてくれるのだ。気象台や予報士にまで八つ当たりしたくなる。NHKの高田予報士の頭、あれは何だ。ベレー帽を後頭部にそらせてかぶっている感じだが、カツラではないのか(ちがっていたらご免なさい)。カツラが悪いわけではない。しっかりかぶれと言いたいのだ。姉歯元建築士のカツラは様になっているぞ。高田予報士のいかにも職業的なイントネーションが気にくわぬ。「気温す」と「で」にアクセントを置くのがいかにも得意げに聞こえる。天候の予報はだいたい当たるのに、気温のほうは外れが多い。気温0度でこちらはふるえているのに、得意げに発音するな。
 それにしても(これは話題を変える時の筑紫哲也キャスターの常套句)。この頃のテレビ番組では食い物の話が多過ぎはしないか。温泉宿や都会のレストランや料亭、さらにはラーメン屋等で俳優などが「これは絶妙」などと、表情を作っている。そのほかいろいろの食い物番組がある。食欲は万人に共通なので、こうした番組の視聴率は安定しているのかもしれないが、各社そろっての食い物ショーとは知恵がなさ過ぎる。食い物番組ではないが、CMでも食い物が目立つ。香取慎吾が得意の大口をあけてギョーザを食っている場面があったが、これを見ていると、食も一つの文化だ、などとはとても思えなくなる。むかし作家の稲垣足穂が宇治に住んでいた頃、人前での食事をいとい、時には押し入れに首を突っ込んでこそこそ食べていたことがあった。本能をさらすのは恥だという美意識からである。今の人たちから見ると変わっているとしか思えないだろうが、拙者には共感する面がある。食欲は人間に共通なので、食を媒介にして社交文化が成立するから、隠れて独食することだけが、醜を避ける手段であるとは思わないが、ひとり大口にギョーザをほうり込んでいる香取を見せつけられると、これはもう醜悪としか思えない。
 この人はまた何かの番組で司会役みたいなことをやっているが、たまたま黒澤明のことが話題になった時、全然見ていない、と語った。それで、太田光が黒澤作品について彼にいろいろ教えてやっていた。ところが、それに対する相づちが間が抜けていて、とても司会役が務まる柄ではないことが露呈した。時には俳優をやることもあって「アーティスト」と呼ばれることのある人が、黒澤作品を見ていないとは? ただ人気があるということだけでこの人をいろいろのところに起用するプロデューサーがどうかしている。香取は黒澤を知らないことをなんら恥じてはいないのだ。彼は自分の無知に傷つくことのない逆スノッブというスノッブである。つまり厚顔無恥なのだ。
 そういえば、この頃は厚顔無恥が結構売り物になる。たかじんの番組に出演して以来、他の番組からも声がかかるようになった橋下弁護士もその一人だ。この人はいつも強い者の味方である。この人はA級戦犯よりもB級戦犯のほうが真の犯罪者だ、と言っていた。BC級戦犯の実態を少しでも知っていればそんなことは言えないはずなのに、何も知らないのに知ったかぶりをするところが厚顔無恥である。たとえば、捕虜となったアメリカ兵を順番に銃剣で突くように上官に命じられた下級兵士が、すでにもう死んでいる捕虜を突き、BC級戦犯として死刑になった。上官の命令さえなければ彼はそんなことはしなかっただろう。命令した上官の上にはさらにその上の上官があり、究極には捕虜を殺してもよいと考えていた軍の首脳にいたる。捕虜になるくらいなら死ねと自軍に命令した首脳にとって、敵軍の捕虜は当然殺されるべき存在だった。そういう背景のもとでBC級戦犯が現れたのだ。実際に手を下したBC級戦犯が真の犯罪者で、手を下すよう、いろいろの回路を経て命令したA級戦犯が無罪などと、とうして言えるのか。こんな人が弁護士をやっているのが不思議である。
 会議中、隣の中国の首相に毛筆ペンを借りた小泉首相のパフォーマンスも記憶に残った。首相は得意の薄ら笑いを浮かべていた。本人は親愛の気持ちをこめて笑みを浮かべたのかもしれないが、この人が笑うと酷薄な感じが漂う。彼はこの頃「靖国はカードにならない」とたびたび言っている。靖国は政治の次元に属さないから、それを政治的取り引きに際してのマイナスのハンディキャップとは思わない、という意を語っているのだろう。だが相手のほうは靖国をマイナスのカードにするつもりはなく、ただそれに原理的に反対しているだけのことだとすれば、「カードにならない」とはいわば下種の勘ぐりのたぐいである。靖国は自分の信条の問題だと言っているのに、相手にとってもアンチ靖国が信条の問題であるかもしれない、などと考えたこともないようである。厚顔というほかはない。
 清とノリがオリックスに入団する。彼らの記者会見では「仰木監督に招かれたから」という入団理由が強調されていた。彼らが生前の仰木監督をどれほど尊敬し、また氏とどれほど親しかったのかはよく知らないが、何でも名士とのきずなを引き合いに出してもったいつけている、という感を拙者はぬぐえなかった。名士を引き合いに出して自分の行動を合理化するのはよくある手なのだ。清は反骨の選手と言われることがあるが、巨人入団に執着していたこの人が反骨的とは、拙者は一度も考えたことはない。前にも言ったが、ノリはオリンピックでバントを成功させてバンザイをしながらベンチに帰ってきた。愛国心に乏しい拙者でさえもこれは国辱だと感じた。こんな幼稚なことをする選手は外国にはいなかった。二人とも中村GMに「拾ってもらってありがとう」と言うだけでよかったのではないか。これから二人で三振の数を競うことになるだろう。
 まだまだ八つ当たりしたいこともあるが、長くなるのでこれでおしまい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/12/21

小学生に否認された大学生の凶行

 12月10日の午前、宇治市の学習塾でアルバイト講師の大学生(23)が個別指導を断られて関係がなくなっていたはずの小学6年生の少女(12)を密室に連れ込み、包丁で刺殺した。虫の好かないお兄さんとはいえ塾生である以上逃げるわけにもゆかず、2人だけの状況に置かれて、刃物を向けられた少女はどんなに怖かったことか。本当にかわいそうな最期であったと誰もが思ったことだろう。彼女がいなければ「楽になると思った」とかこれで「トラブルがなくなる」などと、この男は警察で供述しているという。楽になりたいのなら、人を殺す代わりに自分が死ねばよいのに。ところが、自分が死ねないから人を殺すのがこうしたたぐいの犯罪者なのである。
 加害者と被害者とが講師と塾生の関係にあったり、凶行の現場が塾の教室であったりしたことで、塾の管理体制という問題がクローズアップされた。それは確かに何とか改善しなければならない問題ではある。しかし別の文脈で見れば、この事件はいわゆるストーカー殺人の一変種でもあるのだ。
 ストーカーは相手と良好な関係を結ぼうとして相手を執拗に追い求める。良好な関係がついに得られないことが分かった時、時としてストーカー殺人が起こる。相手を殺してしまえば、欲望の対象そのものが消失すると同時に、それを追い求める主体自身も破滅してしまうのだから、合理的に考えればそれは無意味な行為である。しかしあえてこの非合理的な行為を強行する者も出てくる。それは相手に否認されてきた自分の存在そのものから、その行為により解放されるかのように思うからだ。この塾講師も生徒に否認されてきた自分から解放されたかったのだ。彼は「楽に」なりたかったのである。
 この事件を通して2つの問題点が浮かび上がってくる。その1つは殺害にまで及ぶ対象へのこだわりの強さであり、もう1つは対象が12歳の女児であったことである。
 まず第1の点に関して。1990年代からテレビゲームが普及し、子供たちはそれに熱中して対人関係が稀薄化した、と言われてきた。23歳の大学生はそういう子供時代を経験したとされる世代に属する。しかし子供が独りで過ごす時間が仮に多くなったとしても、そのために対人関係への興味を失い他者に是認を求める傾向が弱くなるとは思えない。むしろ逆に、独りで過ごす時間が多くなると(テレビゲームへの熱中だけではなく、少子化や親の共稼ぎなどのために)、対他欲望は強まると考えられる。しかし一方、この欲望の肥大に反して、他者の是認をかち取る能力のほうは衰退している。このギャップが犯罪の引き金となるのだ。このアルバイト講師は大学の図書館で2度にわたり、女子学生の持ち物を盗もうとした。金ほしさよりもむしろ関係をつけたい欲望が屈折した形で出てきたのだろう。この場合も性欲を伴う対他欲望が能力を上回っているために惨めな結果を招いた。
 第2の点に関しては、かつては(いつの時点であるかははっきり言えないが)人が是認を求める他者は主として親、教師、上司といった年長者であった。重要な他者はおおむね自分よりも年長の人たちであった。高度産業化が進行するにつれ、重要な他者は年長者から同年齢や年下の人々へと移ってゆく。今回の事件の場合は、個別指導という制度が手伝って12歳の女の子が彼にとって重要な他者となってしまった。彼女の是認がなければ、自分の存在全体が否定されてしまうかのように追いつめられていたのだ。彼は包丁2本とハンマーを用意して彼女を密室に連れ込んだが、彼女が翻意して彼の指導下に戻ることに一縷の期待をいだいていたかもしれない。ところが彼女から「あっちへ行って」と最終的な通告を受けた。その瞬間、彼の居場所がこの世界のどこにもないという事実に彼は直面してしまったのだ。
 対他欲望の肥大と他者の是認をかち取る能力の衰退とのあいだのアンバランス、そして重要な他者の年齢層の低下、これらは今日の若者が置かれているかなり大きな潮流であるように拙者には思われる。たとえば、大阪市での姉妹殺しの犯人(22)も強盗よりはストーカーに近いようだ。しかし若者が上述の2つの潮流の中に置かれているとしても、ストーカー的な犯罪にいたるのはごく僅かの部分である。その他の部分はストーカーに限らず犯罪一般とも無縁なのだ。ではどうしてこの塾講師は凶行に及んだのか。狂気に陥っていたのだろうか。そうかもしれない。だが、それではどうして狂気に陥ったのか。この種の行為がすべてそうであるように、どこまでいっても謎は残るだろう。我々にできることは、この種の行為が起こりそうな条件を探索することだけなのである。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005/12/11

1941年12月8日の宣戦布告

 この晴天の日、拙者はラジオで大本営発表を聞いた。「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり」。その後、真珠湾での戦果が伝えられた。当時19歳後半の拙者は、この声を聞いた時、「とうとうくるはずのものがきた」と思い、「この戦争は負ける」とも思った。日米の軍事力についてほとんど何も知らない無知な学生の拙者が「負ける」と思ったのは格別の根拠があってのことではない。ハリウッドの映画、たとえばサンフランシスコの大地震をセットで撮ったクラーク・ゲーブル主演の映画を見て、巨大な製作費を想像した。これに比べて、暗い電燈のもと、ちゃぶ台を囲んで一家が黙々と食事をしている日本映画によく出てくるシーンは、何と安く上がっていることか。だからといって、拙者はアメリカ映画のほうが日本映画よりも芸術としてすぐれている、などと思っていたわけではない。ただ、金のかかり方に格段の差があると思っていただけである。映画でもこうである以上、軍事力にも格段の差があるに違いない。負けるに決まっている戦争をおっぱじめた軍の首脳は気でも狂っているのではないか、拙者は暗澹とした気持ちになった。
 しかしまた、ある種の解放感もあった。中国との戦争は弱い者いじめという気がして重苦しかった。一方、アメリカは日本を圧迫し続けてきた強者であったから、アメリカへの宣戦布告は日中戦争のうしろめたさを忘れさせる働きがあった。あとで知ったことだが、開戦を知って解放感を味わった知識人も少なくなかった。たとえば高村光太郎もそうであった。この種の解放感は、あとになって拙者が整理した言葉だが、真の敵へと方向づけられることになったという一種の真理体験を伴っていた。中国への日本の侵略はそこに権益をもつアメリカなどに脅威を与え、日本に対する経済的な包囲網が形成された。だから日本の膨張政策を阻む真の敵は主としてアメリカであると思われてきた。そこで12月8日は真理の覚醒の日となったのだ。
 しかしそれはあるレベルでの真理にすぎなかった。もっと高次の真理がある。その観点に立てば12月8日の解放感は虚偽意識にすぎなかったのだ。いささか唐突だが、小泉首相の靖国参拝の強行は、余計な配慮にとらわれない直球勝負をいどむという一種の真理体験を伴っているのではないか、との疑いが起こってくる。そうでなければ、国益を無視したあの頑固な態度が説明しにくいような気もするのだが。首相が虚偽意識にはまり込むと、迷惑するのは本人ではなく我々国民である。

| | コメント (3) | トラックバック (3)

トップページ | 2006年1月 »