新自由主義と自大史観との関係
福田内閣が誕生して以来、自大史観は表に出なくなった。自大史観とは拙者の造語で(以前のブログで定義したことがある)、いわゆる自虐史観への対抗イデオロギーであり、侵略戦争の開始も含めて、何でもかんでも日本の戦前のあり方は正しかった、反省などする必要は全くない、と主張する史観である。その一端は総裁選に出た麻生太郎の「誇れる国」に現れていたが、彼が敗北してからは自民党の領袖たちの誰からもこの種の声は発せられなくなった。自大史観は小泉元首相の靖国参拝において部分的に、そしてヴェールを通して表出されていたが、彼の勧めで総裁・総理となった安倍晋三はこの自大史観を全面的に打ち出すイデオロギー内閣を作り出した。そのことはこの内閣にかかわる要職(大臣その他)の多くがかつての「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(今は若手が取られている)のメンバーによって占められていたことから分かる。参議院選の敗北により、「若手議員の会」のメンバーが総退場してしまったのは、よく知られている通りである。
ところで、小泉内閣の時から拙者は新自由主義にもとづく構造改革に自大史観がどうして相伴するのかが分からなかった。両者のあいだには必然的な関係があるのだろうか。構造改革は規制緩和を通して労働力を流動化すると共に、グローバリズムの波に乗ってアメリカの資本を大幅に受け入れ、国内の大企業の成長を促進する方策である。その方策にとって自大史観はどのように役立つのだろうか。一見すると、一方のグローバリズムと他方のナショナリズムは矛盾する。事実、自大史観にもとづく従軍慰安婦制度への軍関与の否定は、アメリカの議会の反発をもたらし、この史観に一部由来する極東軍事裁判の否認は、アメリカの世論に不安と不興を呼び起こす気配があった。したがってこの史観のあからさまな主張は、アメリカを発信地とするグローバリズムの受容と両立し難いように思われるのである。そこで新自由主義と自大史観とが全く矛盾しないかのように両者を一体として押し進める政策路線が、どうして成り立つのかが拙者には謎であった。
福田内閣が登場して、両者には必然的な結びつきはないことが明らかとなった。沖縄の住民の集団自決に軍の関与を認める方向で高校の教科書を見直す措置を講じる可能性が浮上したのはその一例である。軍の関与を教科書から閉め出した安倍内閣のもとでは起こりえない転換だ。一方、福田内閣においては構造改革のいわゆる影の部分の修復がめざされている。さしあたっては老人や障害者への薄過ぎた生活保障を元へ戻そうとする動きなどがある。しかし構造改革のほうを打ち止めにする気配はない。確かに福田首相は安倍前首相のように「改革を加速させる」とは言わず、格差是正に努めると言っている。これは再チャレンジなどといい加減なことしか言わなかった安倍前首相とは違っている。しかし福田内閣にしても構造改革は継続するという立場を取っているので、この点に関しては自大史観への距離の取り方とは異なっている。こうしたところから判断すると、新自由主義と自大史観とは、相互に独立の変数なのだ。一方が変われば他方も変わるといったような関係ではない。現に構造改革は自大史観なしに済ますことができるとされているのである。「戦後レジームからの脱却」だとか「美しい国づくり」などといった掛け声はどこかへ消えてしまった。
では、以前の2代にわたる内閣、とりわけ安倍内閣において、結びつく必然性のない新自由主義と自大史観とがどうして結びついたのか。両者が結びつく合理的な必然性がないのに、どうして? この問を立てた拙者の答は簡単だ。新自由主義と自大史観とのあいだには、合理的な結びつきがなくても非合理的な結びつきがある、と。
非合理的な結びつきとはこうである。新自由主義者は経済を強くする、具体的には大企業を強くすることをめざしている。そのために、社会の様々な分野で弱者が増加するが、弱者をどのように救済するかは彼らにとってはたいした問題ではないのだ。彼らにとっての最重要課題は経済的強者を保護し、支援することなのである。つまり新自由主義者はみずからを経済的な強者と同一化しているのだ。この強者と同一化する心性が自大史観の支持者にも共有されていることは明らかである。中国への侵略から始まった戦争は自衛のためであった。だから国民は道徳的劣位者のようにみずからを恥じる必要はない。戦時の軍隊の士気を高めるために必要な慰安婦は民間の組織が調達したのであり、軍の関与はなかった。南京大虐殺は中国側のでっち上げである、等々。かつての日本国家はやましいところは何もないという意味で道徳的にも無傷の軍事的強者であった。自大史観の支持者はこういう仕方で、強い国家とみずからを同一化しているのである。そう考えると、ナショナリストを自任する「若手議員の会」の面々が、日本にとって互恵性のバランスをかなり上回る譲歩を迫りがちなアメリカに対し、決して反米的にならない理由が理解できる。なにしろアメリカは世界最強の国家だからである。彼らは強者であるアメリカと同一化しているのだ。安倍前首相が辞職した原因はいくつかあったにせよ(その一つは慢性化した下痢便、この点は同情を禁じ得ない)、インド洋上の自衛隊による給油が継続できない事態に立ち至ったことが決定的な原因であったようである。ブッシュに申し訳ないという次第だ。
新自由主義と自大史観という、合理的には結びつかないように見える両者が、2代にわたる内閣において結びついた理由を、為政者の性格構造の中に見いだすこの議論は、あまりにも単純に思え、そして心理学的に過ぎる、と見る人々も多いかもしれない。だが拙者にはそれ以外の説明がどうしても浮かんでこないのだ。そしてこの説明は確かに心理学的ではあるけれども、この種の性格構造は為政者を生み出す自民党員たちのあいだにかなり広がっていると思えるので、この説明は社会学的でもある。したがって内外の状況しだいで、たとえば選挙で敗北するといった危機的状況においては、両者の結びつきを切断する為政者が登場することがあっても、また再現する可能性がある。この性格構造は、繰り返して言えば、常に強者に同一化し、弱者を軽んじて攻撃することさえやぶさかでない性格構造なのだ。
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