2007/10/10

新自由主義と自大史観との関係

 福田内閣が誕生して以来、自大史観は表に出なくなった。自大史観とは拙者の造語で(以前のブログで定義したことがある)、いわゆる自虐史観への対抗イデオロギーであり、侵略戦争の開始も含めて、何でもかんでも日本の戦前のあり方は正しかった、反省などする必要は全くない、と主張する史観である。その一端は総裁選に出た麻生太郎の「誇れる国」に現れていたが、彼が敗北してからは自民党の領袖たちの誰からもこの種の声は発せられなくなった。自大史観は小泉元首相の靖国参拝において部分的に、そしてヴェールを通して表出されていたが、彼の勧めで総裁・総理となった安倍晋三はこの自大史観を全面的に打ち出すイデオロギー内閣を作り出した。そのことはこの内閣にかかわる要職(大臣その他)の多くがかつての「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(今は若手が取られている)のメンバーによって占められていたことから分かる。参議院選の敗北により、「若手議員の会」のメンバーが総退場してしまったのは、よく知られている通りである。

 ところで、小泉内閣の時から拙者は新自由主義にもとづく構造改革に自大史観がどうして相伴するのかが分からなかった。両者のあいだには必然的な関係があるのだろうか。構造改革は規制緩和を通して労働力を流動化すると共に、グローバリズムの波に乗ってアメリカの資本を大幅に受け入れ、国内の大企業の成長を促進する方策である。その方策にとって自大史観はどのように役立つのだろうか。一見すると、一方のグローバリズムと他方のナショナリズムは矛盾する。事実、自大史観にもとづく従軍慰安婦制度への軍関与の否定は、アメリカの議会の反発をもたらし、この史観に一部由来する極東軍事裁判の否認は、アメリカの世論に不安と不興を呼び起こす気配があった。したがってこの史観のあからさまな主張は、アメリカを発信地とするグローバリズムの受容と両立し難いように思われるのである。そこで新自由主義と自大史観とが全く矛盾しないかのように両者を一体として押し進める政策路線が、どうして成り立つのかが拙者には謎であった。

 福田内閣が登場して、両者には必然的な結びつきはないことが明らかとなった。沖縄の住民の集団自決に軍の関与を認める方向で高校の教科書を見直す措置を講じる可能性が浮上したのはその一例である。軍の関与を教科書から閉め出した安倍内閣のもとでは起こりえない転換だ。一方、福田内閣においては構造改革のいわゆる影の部分の修復がめざされている。さしあたっては老人や障害者への薄過ぎた生活保障を元へ戻そうとする動きなどがある。しかし構造改革のほうを打ち止めにする気配はない。確かに福田首相は安倍前首相のように「改革を加速させる」とは言わず、格差是正に努めると言っている。これは再チャレンジなどといい加減なことしか言わなかった安倍前首相とは違っている。しかし福田内閣にしても構造改革は継続するという立場を取っているので、この点に関しては自大史観への距離の取り方とは異なっている。こうしたところから判断すると、新自由主義と自大史観とは、相互に独立の変数なのだ。一方が変われば他方も変わるといったような関係ではない。現に構造改革は自大史観なしに済ますことができるとされているのである。「戦後レジームからの脱却」だとか「美しい国づくり」などといった掛け声はどこかへ消えてしまった。

 では、以前の2代にわたる内閣、とりわけ安倍内閣において、結びつく必然性のない新自由主義と自大史観とがどうして結びついたのか。両者が結びつく合理的な必然性がないのに、どうして? この問を立てた拙者の答は簡単だ。新自由主義と自大史観とのあいだには、合理的な結びつきがなくても非合理的な結びつきがある、と。

 非合理的な結びつきとはこうである。新自由主義者は経済を強くする、具体的には大企業を強くすることをめざしている。そのために、社会の様々な分野で弱者が増加するが、弱者をどのように救済するかは彼らにとってはたいした問題ではないのだ。彼らにとっての最重要課題は経済的強者を保護し、支援することなのである。つまり新自由主義者はみずからを経済的な強者と同一化しているのだ。この強者と同一化する心性が自大史観の支持者にも共有されていることは明らかである。中国への侵略から始まった戦争は自衛のためであった。だから国民は道徳的劣位者のようにみずからを恥じる必要はない。戦時の軍隊の士気を高めるために必要な慰安婦は民間の組織が調達したのであり、軍の関与はなかった。南京大虐殺は中国側のでっち上げである、等々。かつての日本国家はやましいところは何もないという意味で道徳的にも無傷の軍事的強者であった。自大史観の支持者はこういう仕方で、強い国家とみずからを同一化しているのである。そう考えると、ナショナリストを自任する「若手議員の会」の面々が、日本にとって互恵性のバランスをかなり上回る譲歩を迫りがちなアメリカに対し、決して反米的にならない理由が理解できる。なにしろアメリカは世界最強の国家だからである。彼らは強者であるアメリカと同一化しているのだ。安倍前首相が辞職した原因はいくつかあったにせよ(その一つは慢性化した下痢便、この点は同情を禁じ得ない)、インド洋上の自衛隊による給油が継続できない事態に立ち至ったことが決定的な原因であったようである。ブッシュに申し訳ないという次第だ。

 新自由主義と自大史観という、合理的には結びつかないように見える両者が、2代にわたる内閣において結びついた理由を、為政者の性格構造の中に見いだすこの議論は、あまりにも単純に思え、そして心理学的に過ぎる、と見る人々も多いかもしれない。だが拙者にはそれ以外の説明がどうしても浮かんでこないのだ。そしてこの説明は確かに心理学的ではあるけれども、この種の性格構造は為政者を生み出す自民党員たちのあいだにかなり広がっていると思えるので、この説明は社会学的でもある。したがって内外の状況しだいで、たとえば選挙で敗北するといった危機的状況においては、両者の結びつきを切断する為政者が登場することがあっても、また再現する可能性がある。この性格構造は、繰り返して言えば、常に強者に同一化し、弱者を軽んじて攻撃することさえやぶさかでない性格構造なのだ。

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2007/09/23

「問題を起こすのが政治家の仕事ではない」

 9月21日、福田康夫、麻生太郎の両氏が日本記者クラブで公開討論会を行った。その中の一部分について『朝日新聞』の「天声人語」氏は次のように書いている(9/22)。
---「『問題を解決するのが政治家。起こすのが仕事ではない』(福田氏)には噴き出した。」
何に噴き出したかの理由が書いていないので、推察するほかはない。昨今、「政治とカネ」に関して政治家がしょっちゅう問題を起こしているのに、「それはないだろう」という意味で噴き出した、とも取れる。そのつもりで書いたのかもしれないが、実際に福田氏が念頭においているのはこの種の問題ではなかったのだ。この発言が出た文脈はこうである。
---麻生氏の言う「誇れる国」は未来像のことなのか現状のことなのかを質したのに対し、麻生氏がやや憤激した様子で、「自分は自虐史観にくみしない」という意味の言葉を返した。ここで「自虐史観」という言葉が不用意に発せられたのに対し、福田氏は「問題を起こすのが政治家の仕事ではない」と切り返したのである。

 多元的国家観(権力の多元性を認める国家観)を一応は望ましいと思っている拙者のような立場から見ると、「問題を起こすのは政治家の仕事ではない」という福田氏の発言はしごく尤もで、なぜ「噴き出す」のか、さっぱり分からない。なるほど、現今では多元的国家観は理想であり、現状の国家はこの理想から遠く隔たっている。為政者はしばしば偉そうに問題を立てる。「戦後レジームからの脱却」「教育再生」など。国民の一部にはこうした問題を立てることを望む声がないとは言えない。だがそれは一部の声であって大多数の声ではないのだ。為政者が独りよがりでこうした問題を立てたのである。こうした為政者はリベラル・デモクラシーのイデオロギーが多元的国家観であることを全く知らないのだ。そんな言葉は聞いたこともない、と言うだろう。確かに、多元的国家は理想であり、それに到達するのは困難だが、いやしくもリベラル・デモクラシーのもとで政治をやる以上、それくらいのことは知っていて、それに近づくよう努力すべきだ。ところがそのことがまるで分かっていないのに、中国を暗に名指しながら、インドとは価値観を共有するなどと、空疎な言葉を世界へ向けて放送したりしているのである。

 以上で述べた意味において、拙者は「問題を起こすのではなく解決するのが政治家の仕事」という福田発言をしごく尤もだと思うのだ。麻生氏は安倍政権を踏襲し、またもや「自虐史観」には立たないなどと言うのに対し、福田氏はそれは「問題を起こすこと」だと批判しているのである。
 「自虐史観」を含めて歴史認識は専門家に委すべきだというのが、自民党出身の為政者たちの表向きの発言ではなかったのか。それが表向きで本音は特定の史観に立つことを平然と洩らし、さらにはこの本音を「戦後レジームからの脱却」などといった内容不明の政策として打ち出したのが安倍内閣であった。麻生氏がこの路線を踏襲しようとしていることは、先の発言で露呈されている。政治家の任務は問題を立てる(福田氏は「起こす」と言っているが)べきではなく、問題を解決する(紛争を解決する)ことなのだ。麻生氏はそのことがまるで分かっていない。彼は「キャラを立て」たがるが、「問題も立て」たがるのだ。「そうすると、僕はノーキャラ?」と応じた福田氏の期せずして発したユーモアはピントが合っていた。

 「天声人語」氏はまた、「指導者の必須条件は」という問に「孤独に耐える力」と答えた麻生氏の発言を「味わい深い」と書いている。一方では福田発言に「噴き出した」この人が、今度は「味わい深い」だ。これはこの新聞紙上のテレビドラマ批評欄でよく使われる表現だ。テレドラ批評はともかくとして、こういう文脈で「味わい深い」などと書く人の趣味は拙者のそれにはほど遠い。こういう趣味の人だからこそ、この文に何となく感じられる「福田よりは麻生」という判断が出てくるのだろう。

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2007/07/31

困った生徒・安倍首相

敗北した安倍氏の記者会見(7月30日)

安倍:国民はカイカクを望んでいることは確かなので、一層カイカクを進めてゆく。

記者:どういう根拠で国民はカイカクを望んでいると判断されるのか?

安倍:私はカイカクの推進を国民にお約束したので、それを実行してゆく。

大体こんな調子だ。
安倍氏は質問に対して全然答えず、あらかじめ決めていた答をどんな質問に対しても繰り返す。

 国民は直接質問できない。だから記者が代わって質問しているのである。問うているのは国民であり、答えるのは生徒なのだ。ところがこの生徒は質問にまるで答えようとはせず、用意してきた答を繰り返すだけだ。この生徒は先生をあなどっているか、あるいは何が問われているのかも分からない劣等生なのだ。こんな生徒が先生づらをして教育改革を叫ぶ資格はない。
 国民の大多数が大きな痛みを伴うカイカクを望んでいるという証拠はどこにもない。逆に、確かなことは、これまでのカイカクで国民や地域の貧困化が進行していることに対し、国民や地域が異議を唱えていることだ。その異議に対して全く答えようとしないのが安倍首相なのである。
 国民に対し「痛みは分かち合わなければならない」と言ったのは小泉前首相だが、痛みをこうむるのは弱者だけであることがはっきりしてきた。この路線を受け継ぐ安倍首相は前首相なみの鈍感力で暴走を続けようとしている。「反省すべき点は反省し」などと言っているが、今回の敗北は災難と受けとめているだけで、なにも反省などしていないのである。投票所減らしや投票時間の繰り上げなどで国民の権利が侵害されなければ、もっと負けていたかもしれないのに。

 お呼びでないのに、まだやるそうだ。鈍感が力にならないことにやがて気づくだろう。

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2007/07/15

北九州市の役人と赤城農水相

 北九州市で生活保護を廃止された52歳の男性が孤独死した。本人が辞退届を出したから廃止するのは合法的だったと役人は言う。しかし無理やりに辞退届を出さされたというのが実状らしい。何しろこの市は生活保護の適用を極度に制限することで有名な市である。ここでは届けを出す前にまず申請書を書かされ、希望者は受付の窓口にさえなかなか到達できない仕組みを作っている。この市は小泉内閣当時構造改革のモデル特区となった。貧乏なこの市が生活保護の枠を狭めざるをえない理由は分かる。小泉以来の政府がもたらした地域格差の増大の結果だ。だが被受給者の収入などをよく調べもしないで生活保護を廃止するのは不法の疑いがある。

 この市ではまた、32歳の病身の女性が国民健康保険料を納める余裕がないために保険証を取り上げられ、治療が行えず、病に苦しみながら死亡したケースがあった(小野寺光一の「政治経済の真実」7/12付メールマガジン)。この事件--あえて事件と呼びたい--は、2年前の保険料は支払い免除となる規定があるにもかかわらず、市の職員がその規定を本人に教えずに、滞っていた保険料を支払うという誓約書を書かせたケースである。誓約書を書いた以上、免除対象の保険料でも支払わなければならないという仕組みが導入されていたので、誓約に違反した彼女は保険証を取り上げられたのだ。免除規定を教えなかった役人は詐欺に等しい「罪」を犯しているのだが、誓約書が出た以上、あとは「ルールにのっとって」、保険証は取り上げられたのである。

 一方、赤城農水相は実家を後援会の事務所であるとして高額の事務所経費を計上していた。任命責任を問われた安倍首相は、事務所の光熱水費が或る年には月平均805円であったことを楯に取り、たった800円で辞めさせると言うのですかと、せせら笑った。月800円の年があってもその10倍以上の年もあり、10年を合計すれば相当の額である。これらを含めた事務所経費は何に使われたのか。詳細は明らかにしないまま、赤城農水相は「法律に従って」あるいは「ルールにのっとって」報告していると繰り返すだけである。この人はまた東京都23区内に自宅を所有しているにもかかわらず、議員会館にも居住権を取得していた。特別の事情を認められたためかと思われるが、その事情は明らかではない。また、私生活においては妻と共に3台の高級車(約2000万円)を所有している。

 現職の大臣の生活と一般の庶民の生活とを比較するのは単純に過ぎるという声もあるだろう。しかし、北九州市で「ルールにのっとって」の役人の処置により、生活保護を剥奪され、あるいは健康保険証を取り上げられて悲惨な死に追い込まれた人々のことが、拙者の念頭にどうしても浮かんでしまう。同じ日本人が次々に窮死し、あるいは窮死に近づいているのを、経済成長の名のもとに黙認してよいのか。小泉前首相はあい変わらず、日本は格差の小さい国だ、などと演説して回っているようだ。しかし先進国の中で日本はアメリカに次いで貧困率が世界第2位であるという事実をこの人は黙殺している。構造改革のためには貧困拡大・深化はやむをえないと思っているのだろう。

 モデル都市である北九州市で「ルールにのっとって」窮死させられた人々のことを思うと、外車3台と2つの住居をもつ赤城農水相の、「ルールにのっとって」報告していると言う「トッチャン坊や」顔が、拙者には厚かましく見えて仕方がない。

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2007/06/28

住民税納付に伴う増税感

 住民税の納付書や給与明細を開いて、あまりに高い地方税額に衝撃を受けた人は少なくないだろう。新聞の読者投稿欄などでその一端を知ることができる。ある新聞に次のような投稿があった。
 「税額は前年の2倍。昨年は3倍だったから、2年で6倍だ。これが、小泉前首相の言っていた『骨太の方針』や『三位一体改革』とかの正体か。怒りがこみ上げてきた。さっそく市役所と総務省、小泉事務所に電話作戦を敢行した。市役所は、法律にのっとっての一点張り。総務省は、増税と認めず税源移譲だと言い張る。〔中略〕電話番号を探し当てた小泉事務所では、女性秘書が、『小泉はもう現職ではございませんので、役所か現職の方にお尋ね下さい』。木で鼻をくくったような応対に、私は、はしたなくも『バカヤロー』と3回も叫んでしまった。すると、『それで気はおすみですか』だって。」
 76歳、無職の老婦人である。老齢にもかかわらず、納得できないことがあれば、各所に問い合わせる気力を持ち続けておられることに感心した。老人は見くびられているだけになおさらである。まず老年者控除が無くなった。老人虐待だ。次に定率減税の廃止と税源移譲だ。これらが重なって(それに健康保険料や介護保険料の増額が加わる)、増税感が身に迫ってくる。この方は2年で6倍になったのに対し、拙者の場合は、その間、所得はほぼ同じで、住民税は4倍となった。

 では政府の言うように、税源移譲は、所得税を低くして住民税を高くするから、一人びとりの納税者にとってトータルで税額は同じになるというのは本当だろうか。数字に弱いながら拙者もまた、役所の税務課に数回にわたって電話をし、税率変更の詳細を尋ね(当方の役所では的確に答えてくれた)、計算の仕方をやっとのことで把握した。結果、トータルの税額が同じであるというのは、ある保留のもとで、総体としては本当である。「ある保留のもとで」と言うのは、住民税と所得税との課税対象となる所得が同一であるなら、という仮定がつくからである。ところが両税は同一年の所得を基準として算出されるものではない。つまり、多くの人において大幅アップとなった今回の平成19年度住民税は平成18年1月から12月の所得に対して課税されたものであるのに対し、その分ダウンされるという今年の所得税は平成19年1月から12月の所得に対しての課税である。だからここに1年のズレがある。平成18年の所得に対する課税額だけをみると、すでに納めている所得税(平成18年分)は減額されておらず住民税だけが増額となったと言える。これは1年だけのことだが増税以外の何ものでもない。(ただし、高所得者層では住民税減、所得税増と変わる税率となっているので、一般庶民とは逆である。低所得者層ほど住民税増〔所得税減〕の幅が大きくなるような税率が設定されている。) 今年の所得税(平成19年分)でダウン(高所得者の場合はアップ)される分は、正確には来年度の住民税(平成20年度)のアップ(ダウン)分と差し引きされるべきではないか。そうであれば課税対象所得が同一であるから差し引きゼロということになる。
 また平成19年の所得が前年と比べて大きく下がったこと等により平成19年分の所得税がかからなくなってしまった人(住民税増額分が所得税減額分で補えない)に対しては救済のための調整措置がとられるそうだが、平成18年の所得の特殊事情(平成18年にたまたまある程度の特別な所得のあった人は高い住民税を負担しなければならない。逆にこの年だけ特別に所得が低かった人は負担が小さくてすむ)に対する措置は何もない、とのことだ。
 話が込みいってきたが、要するに、住民税の税率変更を1年先にし、所得税の税率変更を先行させれば、このような問題は生じない。そういうわけで、新しい住民税方式の今年度からの適用は公正でない、という感がぬぐえないのだ。

 そして定率減税の廃止だ。そもそも、定率減税はなぜ全廃止されたのか。景気がよくなったから、と言うが、とりわけ低所得者層はその恩恵を全く受けていないのが現状ではないか。だからこの層の人口がいっこう減らないのではないのか。また景気がよくなったのなら、それによって大きな恩恵を受けている企業の切り下げられていた法人税を、元の水準に引き上げるべきだろう。それで釣合が取れるというものだ。なのに法人税はそのままで大企業を潤わせ、定率減税の全廃が低所得者層のふところを直撃するように仕組まれているのである。

 税源移譲を説明する政府の「あしたのニッポン」第1号が配られてきた。課税対象所得の1年のズレのことも、所得者層によって異なる税率のことも一切言及されていない。所得税と住民税とはトータルで同じだと、1つのモデルを例にとって説明するだけである。都合の悪いことは書かない商品の宣伝文と同じだ。こんなビラの1枚でも日本の全所帯に配布するカネの額は大変な数字となるだろう。その配布は大新聞の配達ルートを通して行われているようだが。これから政府の都合のよい情報を、第2号、第3号と続けて流していくのだろうか。投稿した老婦人のように拙者もまた「バカヤロー」と連呼したくなる。

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2007/05/31

無実の罪と使途不明金のゆくえ

 松岡氏の死について伊吹文科相が記者に感想を求められた時、文科相は、やっていないと思うことを本人がやっていないと立証することはむつかしい、と語った。例の光熱水費507万円の使途を追及されたことに関連しての感想であった。まるで、その無理な追及が松岡氏の死の一因であったかのように聞こえた。しかしそんなことで自殺するはずはないと誰もが思っている。だから文科相の反応はちょっと変に聞こえた。同種の問題を追及されたことのある彼自身を弁護しているかのように感じられた。
 些細なことかもしれないが、変なことは変だと、どうしても言いたくなる。やっていないことをやったと言われて追及を受けた時、やっていないことをみずから立証するのは確かにむつかしい。学校のクラスの誰かが財布を盗られた際に嫌疑をかけられた生徒の場合がそうである。しかしその場合と使途不明金のゆくえを追及された場合とは、状況は全く違う。光熱水費として計上された507万円は確かに使われていたのだ。無実の罪でも何でもない。使われていたことは事実なのだ。ただ、その使途が不明であると追及されただけである。何に使われたかの説明を求められただけだ。松岡氏が説明を渋ったのは、何に使ったのか調べがつかないのか、それともその使途を公表しにくいのか、そのどちらかである。どちらにしても、光熱水費にではなく使われていたことは事実だ。
 やっていないことを立証することと、やったことの中味を説明することとは、全く別の事柄である。後者のむつかしさを前者のむつかしさであるかのように語るのは、明らかにすりかえだ。非論理的である。いくら咄嗟の反応であるとはいえ、文科相という立場にある人が、こういう筋の通らない発言をし、そしてそのことに気づいていないように見えることに、いささかわびしい思いがする。

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2007/04/21

教科書検定と幻想の共同体

 沖縄での軍の命令による住民の集団自決の記述が、教科書検定に引っかかり、修正を求められた。「軍の命令」があったかどうかは現在係争中の事件もあり、確認しがたいから、状況に迫られて集団自決が行われたこともあった、というふうに書き直せと、業者は指示された。しかし係争中のこの事件で仮に隊長が命令していなかったとしても、他の大小様々の事件において、軍の命令なしに住民が自発的に集団自決した、ということにはならないだろう。それに、この事件においてでさえ、当時の軍民間の力関係の差を考慮すれば、住民が全く自発的に集団自決したとは言い切れないだろう。

 ところで、1955年の検定では、軍の命令による住民の集団自決を記述せよ、という指示が行われたことも、ここで想い出しておこう(日高六郎『私の平和論』岩波新書)。この指示には次のような背景があった。ハワイ在住経験のある沖縄の一住民を、軍がスパイ容疑で処刑した。実際は彼はスパイでも何でもなかったのである。この事実を記載した教科書は検定に引っかかり、それを書くなら、軍の命令による集団自決も記述せよ、という指示が出たのである。その意味はちょっと分かりにくいが、こういうことだ。スパイ容疑での処刑は明らかに軍のあやまちだが、集団自決は軍と一体になった住民の愛国心の表れだから、これを記載することで、軍のあやまちだけを記載するより公平が保たれる。もう一つ分かりにくい公平観だが、それはともかくとして、1955年当時は、検定委員は軍の命令による住民の集団自決の記載を指示していたのだ。今日から見れば隔世の感がある。

 この変化はどうして生じたのか。教科書検定に関して政府自民党が文部(科学)省や検定委員に加え続けてきた圧力が、その大きな要因であったと思う。この圧力を最近になってとりわけ強化した集団は1997年2月に設立された「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(今は「若手」が消えた)である。先のブログでは、従軍慰安婦問題が教科書で取り上げられていることへのこの会の不満を紹介した。その際、南京大虐殺の事実をも疑問視する会員の意見にも触れた。軍の命令による集団自決事件に対してのこの会の反応はどのようなものであるかは定かでないが、おそらく「軍の命令」を削除することには賛成だろう。そう思うのは、従軍慰安婦問題や南京大虐殺問題への彼らの反応に見られる通り、困った問題への軍の関与をできるだけ認めたくないというのが彼らの立場だからである。
 どうして認めたくないのか。日本においては軍は官であり、お上であった。またお上とは支配層の代行機関であった。その軍の命令による集団自決といった事態は、軍民間の亀裂を露呈する事例である。引いてはまた上下一体の幻想に冷水を浴びせる事例でもあるのだ。だから支配層にとっては、軍の命令による集団自決はなるべく認めたくない事実なのである。支配層にとっては、内部に亀裂のない国民共同体という幻想ほど貴重なものはない。それは民衆を騙すだけではなく自分たちをも騙し、自分たちのエゴイズムを正当化することができるからだ。
 従軍慰安婦や南京大虐殺の場合は、集団自決の場合に比べると、対内的エゴイズムの隠蔽よりも対外的エゴイズムのそれのほうが目立っている。戦争となれば、そんなことはどの国家もやっているし、したがってたいした悪ではない、という訳だ。そして戦争をしかけたのは自分たち支配層であることを忘れたかのような顔をしている。この場合もまた、一体としての国民共同体の幻想が、意識的かあるいは無意識的に利用されている。民衆の中にはお上の煽動に乗った部分もあるだろうが、しかし戦争の意思決定を行ったのは民衆ではなく、お上だったのだ。

 最低投票率も決めていない国民投票法案が、多数の力で参院においても可決されそうである。近い将来においては憲法が改正され、戦争に参加しやすい国家となる可能性が大きくなった。今度は自分で戦争をしかけることはなさそうだが、自衛隊が他国の軍隊の一部に編入され、その国の利益を守るために、あるいは自国の大企業の金儲けをバックアップするために、自衛隊が正真正銘、命がけで危険な地域に出かけることになるだろう。もちろんそうした出動を決定するのは支配層である。今度もまた血を流すのは自衛隊隊員や在留邦人であり、支配層は怪我一つ負うことはないのだ。そして犠牲者に対してこう言うだろう。「国民共同体の一員としてあなた方には感謝する。靖国にはまつってあげるからね」と。

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2007/04/10

東京都民度

石原に ババアと呼ばれた連中も

  こぞって握手 これぞ東京

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2007/04/05

従軍慰安婦に向けての強制連行

 安倍首相は国会などで従軍慰安婦に向けての「狭義の強制連行はなかった」と発言し、内外から非難の声が上がった。そのせいか、彼は「狭義の強制連行」という言葉を以後口にしなくなり、その発言についての釈明も一切行うことなく、強制連行を認めた河野談話の継承には変わりはない、という一点だけを、オウムのように繰り返すに至っている。しかし彼が事務局長を務めた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」での彼の発言を読めば(『歴史教科書への疑問 - 若手国会議員による歴史教科書問題の総括』平成9年)、「狭義の強制連行はなかった」というのが彼の本音であることは明らかだ。しかしこの人間としての本音を首相として口に出したのはまずかったと思い、以後この言葉を封印したのである。彼はこの程度のことは口にしても問題はなかろうと思っていたのだろう。だがそれほど国際社会(この人たちのお気に入りの言葉)の世論は甘くはなかったのだ。以後この言葉を使わなくなったが、それでも時すでにおそく、ワシントン・ポスト紙でダブル・トークと非難された。日本語で言えば二枚舌である。首相ともなれば二枚舌を使わざるをえないのが世界の現状なのだ。

 上掲の本の中で出てくる議員たちの発言(衛藤晟一、小林興起、下村博文、中山成彬、森田健作、吉田六左エ門などなど)を読むと、よくもまあこんなノーテンキな人たちが勢ぞろいしたものだと感心してしまう。だが感心してばかりはいられない。これらの人々の中にはかつての閣僚や今の閣僚、その他首相の身近にいる人がうようよしているからだ。ちょっと恐ろしい気もする。

 いろいろの発言があるが、それらの共通項を求めるなら、それは次の通りである。言及の必要のない従軍慰安婦の問題(それに言及するのは犯罪的と言う人もいる)が歴史教科書に入っているのは、河野談話があるせいだ。つまり、河野談話が諸悪の根源なのである。
 狭義の強制連行(官憲などが民家に踏み込んで婦女を連行する、といった)は収集された文書で確認されたわけではないのに、それが行われたことがあったかのように語る河野談話は、韓国の元慰安婦16人からの聞き取りだけにもとづいている。ところが、これらの人々の証言のウラは取れていない。だから信用できる証言であるとは言えない。したがって河野談話には実証性がない。それなのにこれを根拠として従軍慰安婦問題を教科書で扱うのは重大問題である。まあ、ざっとこんなふうに、河野談話が教科書との関連において批判されている。なおここでひとこと断っておくと、河野談話においては、官憲などが民家に踏み込んで婦女を連行した、などという具体的な事実を語っている個所はない。そこでは「軍の要請を受けた業者によって、甘言、強圧など本人の意志に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が直接加担したこともあった」と語られているにとどまる。ところで首相の言う「狭義の強制」の中に「甘言、強圧など本人の意志に反して集められた事例」が入るのか、入らないのか、定かではない。

 さて「若手議員」たちはこれらの強制があったことを認めたのだろうか。確たる証拠がないから認めない、というのが彼らの立場であるらしい。しかし強制連行をできる限り認めたくないという構えがある以上、どんな証拠が出てきても、それは特殊例にすぎないと一蹴されたり、あるいは戦時下で慰安婦が不足していたから、多少の無理をして調達したことがあっても、一般的ではなかったとされたりするだろう。問題は彼らの構えそのものの中にあるのだ。それは南京大虐殺があったということを示す資料はないという主張(江渡聡徳、上掲書、p.220)に似ている。こう主張する人々はすぐに何万人虐殺されたか証拠を出せといきり立つのである。

 「若手議員」の中では、強制連行を認めたがらないにしても、軍のために設置された慰安所の存在そのものは認めている意見が普通であるようだ。そしてこの制度を承認する理由として次の2つが挙げられている。
 第一。戦争中、軍に慰安婦が随行する事実は世界じゅうどこでも見られる。どうして日本の従軍慰安婦制度だけが特に問題にされなければならないのか(衛藤晟一幹事長、上掲書、p.438)。おまけとも言える発言もあった。日本の場合だけ教科書に載せるのは不公平で、他の国々も同じことをやっていると並記すべきだ、と。ところでこの人たちは「やっている」と主張するほうに挙証責任があると言っているのだから、そう言うならこの人たち自身がいろいろの外国の慰安婦制度を調べ上げたらどうか。それは大変だろう。そんな専門家はいるだろうか。ちなみに、「若手」の勉強会に講師の一人として呼ばれている吉見義明教授によれば、慰安施設を中央の公認で作っていたのは、現在まで分かっているところでは、ナチス・ドイツと日本軍だけである。
 第二の正当化の理由はこうだ。「兵隊も命をかけるわけですから、明日死んでしまうというのに何も楽しみがなくて死ねとは言えないわけですから、楽しみもある代わりに死んでくれ、と言っているわけでしょう。そういうところにどこの国だって連れていく」(小林興起、上掲書、p.436)。この発言を受けて講師の河野洋平元内閣官房長官は次のように答えている。「戦争は男がやっているんだから、女はせめてこのぐらいのことで奉仕するのは当たり前ではないか、と。まあ、そうおっしゃってもいないと思いますが、もしそういう気持ちがあるとすれば、それは、今、国際社会の中で全く通用しない議論というふうに私は思います」(上掲書、p.437)。河野氏の反論はもっともだ。それに比べて今どきこういうことを言っている小林氏は、拙者にはとてもノーテンキに思える。女性が戦争に協力するとしても、何も慰安婦の募集に応じることはないだろう。それに外国や植民地(朝鮮半島など)の女性が慰安婦として協力する義務は全くないのだ。こんなことを口に出す人は小林氏くらいのものだが、この勉強会はこうした発言が浮いているとは思えない雰囲気のもとで進行しているのである。

 こういう雰囲気の中でリーダー役を務めた安倍氏が、今や首相となって「新しい国づくり」を提唱しているのだ。この雰囲気は新しいどころか、時代おくれである。そこには国際感覚の欠如がある。勉強会に参加している人々は「憂国の士」という気分で発言しているが、その憂国ぶりはとても国際社会に通用するていのものではない。独りよがりの井戸の中の蛙といった感がする。
 こういう人たちが政権の中枢にあってその本音を外交政策に反映させることになるなら、日本は必ず国際社会の中で孤立するだろう。一部の人々の憂国の思いが日本を破滅に導いたことがあったのは、そんなに昔のことではない。戦後レジームを否定しようとする憂国の士たちが、過去の轍を踏まないよう、国民は監視しなければならない。

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2007/03/12

参院予算委員会の風景

安倍首相への質問に対し、お呼びでないのに出しゃばって答弁する大臣

   一身を救い賜いし安倍さんの

   醜(しこ)の御楯(みたて)となりてしやまん

           失言機械・柳沢伯夫

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